聖書一覧へ
マタイ一覧へ
主題聖句 タイトル
マタイ 4章18〜22節 弟子となる資格
18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、
湖のほとり
 ヨハネの逮捕を契機にして、独自の活動をおはじめになったイエスは、「ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた」。イエスの、カファルナウムを中心としたガリラヤ伝道が始まったのである。
二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
シモンとアンデレの家
 イエスが活動を始められて、最初にご覧になったのは、二人の兄弟、「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」の姿だった。「彼らは漁師だった」ので、「湖で網を打っている」姿をご覧になったのである。
 ペトロの家は、カファルナウムに於けるイエスの宣教活動の拠点となっていたことはマタイの他の箇所にも頻繁に出ているので、ほぼ間違いのない事実と思われるので、ペテロとアンデレの兄弟は、イエスの活動の支援が出来る程度には、裕福であったと推測される。このことから、彼らの生業である漁師の仕事は、かなりよくいっていたと見ることは妥当である。
シモンとアンデレ
 「網を打っていた」、すなわち、投げ網の一種である。この方法で、ペトロとアンデレの兄弟は漁をしていたのである。
 投げ網は、魚の居場所を直接見極めて網を投げる方法である。それだけに、魚の生息の状況を知らなければ漁ることはできない。特に、海抜マイナス200メートルもあるガリラヤ湖のような特殊で、小さい湖では、気象の状況、漁をすべき時間帯は、漁の結果に極端に影響する。いつ変わるとも知れない気象の条件を忍耐強く待ち、絶好の条件が来た時、即座に網を打たなければならない。
 網を打ったからといって、必ず大漁という結果が得られるとは限らない。むしろ、一匹も入っていない場合が多い。そのような時、落胆しないで、更に好機を待って網を打たなければならないのである。
 また、ガリラヤ湖を取り巻く標高二万三千メートルにも及ぶ山々から吹き下ろす風は、ガリラヤ湖を囲む二百メートルの断崖を滑り降りて、湖面に垂直に落ち込んできて、激しい嵐が起こる。
 湖の嵐の危険を見極めながら、小舟を出さなければならない。毎日ガリラヤ湖で漁をしなければならない漁師にとって、気象の変化を見誤ることは、命の危険を背負うことになるのである。
 従って、彼らは、漁師として、相当な技術や知恵を持っていたと見ることが出来る。主イエスは、この兄弟が網を打つ様子を見て、人として持っていなければならない人格的な魅力をお感じになったことは間違いない。
19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
二人の弟子の召命
 網を打っているペトロとアンデレの情景は、実に、イエスがこれから行おうとしておられる、神の国についての宣教の情景と重なっていたのであった。
 ひたすら網を打っているペトロとアンデレ。生計を立てるために無くてならない仕事。その仕事の真っ最中に、「わたしについて来なさい」とイエスは声をかけられた。ペトロとアンデレにとって、この呼び声で凡てが始まったということができる。
 確かにペトロは、熱心党の一人であったらしいと言われ、ひとかどの見識を持ってはいたろうと思われるが、彼の人生は、このイエスの呼び声で本質的なところで一変したと言える。
 何事でも、人は呼び声によって生きた者になる。自分の持っている物だけにしがみついている時は、生きる意欲に満たされることはない。呼び声に応えて、自らを拓き、その要請に応えようとして変革し、前進するところに、人は生きていることを実感する。呼ばれ、期待され、それに応えようとすることによって生きるところに、人としての栄誉があるのである。
主なる神か偶像か
 イスラエルの宗教的伝統の中では、主なる神に従うか、それとも偶像の神々に従うかについての決断を求める時に、「わたしについて来なさい」という言葉が使われた。従って、イエスがシモンとアンデレにこの言葉を用いて呼びかけられた時、偶像から離れて、主なる神に従う決断をもって、イエスについて行くかどうかを求められていると感じたに違いない。このことを思うと、イエスの呼びかけは、権威ある、神の呼びかけであったことが伺えるのである。
使命への招き 
 一つの呼びかけには、一つの要請が付随している。イエスは、「人間をとる漁師にしよう」と言われた。
 シモンとアンデレにとって、それは、日常的な、平凡な暮らしから、新しい暮らしへの招きであり、その招きは、それまで生きてきたすべての知恵を尽くしてもなお足りないほどの大きな使命への招きであった。
 それは、神の国、すなわち、神の支配の実現のためにこの世に送られたイエスの使命と同じ使命への、シモンとアンデレの召還だったからである。
 このことは、二人の兄弟にとって、思ってもいなかった出来事だった。彼らがもしここで決断するならば、神の支配の領域としての網を打って人々をその中に囲い、その支配の中に定着させながら、天の国へ導いていく大いなる働きに携わることになる。そういう出来事であった。
 その働きは、容易なるものではなく、海に出て漁をするより遙かに強い忍耐と、命を捧げるほどの危険に対する勇気を必要とするものであったが、その目的は、人を救いへともたらす栄誉ある成果であった。
20二人はすぐに網を捨てて従った。
網を捨てる
 ここで、「すぐに」とあるが、イエスの召しと彼らの従順のとの間には、如何なる躊躇も無かったことが分かる。躊躇し、召しと決断との隙間を作り、人間の側の選択が可能な状況はここには発生しなかった。イエスの召しに対して、ペトロとアンデレは、一瞬にして同じ思い、同じ使命を抱くという状況が起ったのである。
 もっとも、一瞬にと言っても、霊的・奇跡的にこの状況が起ったということには必ずしもならない。イエスの神の国の宣教活動は、カファルナウムには十分知られており、熱心党であったと言われるペトロにとってはなおさら、周知の事柄だったことは推量される。また、イエスとヨハネの弟子達との交流も、福音書の中に記述されているので、ペトロかアンデレのどちらかが、イエスと直接に話をしたという可能性も否定できない。この意味で、この兄弟が決断に至る配慮が摂理によって準備されていたことは推量される所である。
 ただ、目に見えない準備がどのように為されていたとはいえ、突然のイエスの召しに対して、「すぐに」「網を捨てて従った」ということは、この召しが、人間の選択の余地を残さず、全的な献身を要求する性質の召しであったことを意味していたことは疑いのないところである。
21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった
人間的関わりを超える使命
ここで、もう二人の弟子、ヤコブとその兄弟ヨハネの召しについても、マタイは伝えている。
 特徴的なのは、ペトロとアンデレの場合、二人が網を打っている場面であったのに対して、「父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしている」という状況が付加されていることである。
 即ちここでは、「父親」の存在によって、従順への決断が、それ以前の人間的関係との関わりを意識して為されたことを強調している。
 即ちここでは、家族との関わりを断ち切って、反社会的なカルトを形成する方向に向かうという意図はない。そうではなく、この決断は、親子関係のような強い関係であっても、これを絶対化するのではなく、これを超えて、主イエスの召しには絶対的に服従しなければならないものだということが意味されているのである。
22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
 この二人も、旧い関係を断ち切り、それまでのすべてを投げ打ってイエスに従ったことが分かる。
最初の四人の弟子
 この四人の人たちは、確かに学者ではなく、権力者でもなく、また社会的な冨も地位も高くはなかった。しかし、平凡で、愚鈍であったわけではない。自分の職業には優れており、生きるには素晴らしい知恵を持って地道に生きた人々であった。
 それだけに、彼らは、自分の毎日に真剣であり、生きるために命を捧げることを厭わない人々であった。与えられた使命に対して、命を捧げてその実現に知恵を働かせる人、このような人をイエスは求めておられたのである。そしてここに、4人の弟子が生まれることになった。
 召し出された弟子達は、「人間をとる漁師になること」が、人々の羨望のまなざしを自分に向けさせることにではなく、自分の名誉には繋がらず、凡てを主イエス・キリストに帰すことであることを知るよしも無かったであろう。 また事が、イエスの十字架の後に従うことであり、迫害の中で命を失うことであることを、本当には理解していなかったことも確かである。しかし彼らは、好むと好まざるとに関わらず、主の召しに従って、この道を歩くことになったのである。
 ある目的への召しは、そのための全的な献身を要求する命令として現れる。そこにこそ、偉大な人間の生き甲斐は発見され、人間の栄誉と救いは確認されるのである。