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主題聖句 タイトル
マタイ 4章8〜11節 ただ主に仕えよ
08更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き
高い山での誘惑
 主イエスに対して3つめの提案をするに際して、サタンは、「非常に高い山に連れて行った」とある。「非常に高い山」と言われているのは、山々の上に「抜きんでて聳え立っている」山のことを意味する。従ってこの山は、諸々の山の上に君臨し、それらを従えて聳え立っており、その権威は他に比較することの出来ないほど強力であることを意味している。この山の頂に、サタンは主イエスを連れて行ったことが分かる。
 また、「連れて行った」というのも、王を迎えるようにして、山の頂に導いたことを意味している。サタンは、主イエスに批判的な態度は取らず、決して対立的な姿勢は取っていない。むしろ、主イエスの立場を推量し、その使命の達成のために協力する姿勢を取る。まさに、主イエスを、諸々の山に君臨する、この高い山の頂に立つべき方として、サタンは認めていたことが分かる。
世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて
世界を見通す指導者
「世のすべての国々」とあるのは、この高い山から見える国々のみではなく、目に見えない国々も含めて、一つも欠けることのない「すべて」を意味する。
 また、「見せて」と訳されている言葉は、「示して」という意味も含んでいる。このことを加味すると、ここでは、この世の王となるべき方に対して、その支配の領域を見せ、示したということになる。
 その領域は、「繁栄していた」と書かれている。ここで「繁栄ぶり」と訳されている言葉は、神について使用されるときには「栄光」と訳され、人間について使用される場合には、「栄華、好評、名誉、繁栄」などと訳される言葉である。従って、世のすべての国々は、「人間の栄光」に輝いていることが意味されている。
 サタンは、この、栄光に輝いた、目に見える国々のショーを見せることによって、この世にあるすべての国の本質を把握させたと言い換えることが出来る。
 この世は、人々が活動し、それぞれの文化を作り上げていく領域である。そこには、希望があり、幻があり、喜びと楽しみが溢れている。この豊かな、幸せに満ちた国々の本質を、サタンは、主イエスに見せたことが分かる。
 サタンは、この時、詩編二編八節の「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」という句を根拠として、この行動を起こしたのかも知れない。
 確かに、主イエスが神の子ならば、この、栄光に満ちた地上を嗣業として、神から譲り受け、ここを支配する王となるべきだった。そのために主イエスはこの地上にお出でになったとサタンは見たのである。
 こう読んでくると、サタンは、この主イエスの使命をしっかりと理解し、そのお立場を支持していることになる。
09もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った
世との妥協の要請
 このように、サタンは、前もって準備をした上でイエスを誘惑する。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら」とあるのは、申命記五章七節の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という「十戒の第一項」に対する誘惑としての、サタンの提言だと言える。
 しかし、ここで注意しなければならないのは、この提言は、「現在ひれ伏している神を廃して」、わたしを拝め、とは言わず、ただ、「わたしを拝むなら」とだけ言っていることである。すなわち、ここで要求されていることは、排他的な姿勢ではなくて、「妥協」することが要請されているということである。
 この提言は、眼前に広がる諸国を掌握し、この世の支配者、この世の王となるためには、妥協が必要だ。石をパンに変え、断崖から身を投げて天使が足を支えるのを人々に見せ、サタンと少しばかり手を結ぶならば、人々は主イエスめがけて押し寄せ、「容易に」この世を支配出来るではないかという提言だということが分かる。
 またここで、「これをみんな与えよう」とあるのは、サタンが、主イエスを世界の王と認めて、自分の全権を譲ろうとしたことを意味している。ここでもサタンは、主イエスの先には決して出ず、王としてのイエスの身分を承認して、これに協力する形を取っていることが分かる。
 その上で、主イエスの注目をこの世の栄光に向けさせて、神と妥協し、世と妥協することによって、この世を掌握する道を選択させようとしているのである。
 地上の王に比べて、何一つ持っておられない主イエスが、世の人々にとって何者なのかが問われ、人々は、主イエスに向かうよりも、多くの地上的な力に満ちたこの世の王に向かうことは必定。この世では、何の実績も結果も持たなくては、決して受け入れられないというのが、サタンの提言だということが分かる。
 人が困難に出会うとき、人生は、この世のものに依存しているかのように人を思い込ませるし、また好調なときには、この世の栄華に人生の目的があるかのように人を思いこませる。
 人にとって、この世で実績を積む、そしてその力を持って、自らに関心を寄せさせ、人を引きつけていくことほど、現実的な魅力を感じさせるものはない。
 この魅力を利用して、人を自分に引きつけること、これこそ世のやり方である。世に受け入れられるように事を図らなければ、この世を掌握し、この世で成功することは出来ない。この世で成功する形で、神に対する信仰を実践していく方法は、信仰にとっても有益だという思想は、説得力があり、有効に見える。
 しかしこの姿勢は、神にも人にも仕える姿勢である。人にも仕える姿勢は、とりもなおさず、ほかの神、すなわちここでは、サタンをも拝する姿勢であり、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら」という条件の実践なのである。サタンはこの姿勢を要請したということが分かる。
10すると、イエスは言われた。「退け、悪魔。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」
主のみに仕える
 しかし聖書は「ただ主にのみ仕えよ」と伝えている。ここでは、世と少しく妥協して、この世で有利になるために、神だけではなく、サタンにもひれ伏して拝するようにというこの要請に対して、主イエスは、「退け、サタン」と言われたとある。
 「退け」という言葉は、「引き下がれ」という意味を含んでいる言葉である。この命令によって、主イエスは、サタンをご自身から引き離されたことが分かる。
 そして、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と、聖書の言葉を続けて語っておられる。
 この言葉は、申命記六章一二ー一四節にある聖句から取られている。そこには、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」とある。
 主イエスはここで、主を拝み、主にだけ仕えること、言い換えれば、「『わたしを拝むなら』というサタンの要請には応じない」と言われたことが分かる。
 このことは、ほかの神をも拝み、この世の魅力を利用して、人を自分に引きつけることを拒否されたことを意味する。主イエスは、「主を拝み、ただ主に仕える」ことを選択されたことになる。
十字架への道の選択
 ここで、主イエスは、神のみを見つめ、世に向かって心を奪われることはなかった。ご自分の使命が、世とほんの少しばかり妥協することで、容易に達成しうるように見えても、主イエスは、これを拒否して、神にのみ固着し給うた。
 このことによって、この世では実績が示せず、何も力を示すことの出来ない主イエスなどに見向く者は居なくなるという運命を担うことになった。そして、この時から、さまよい、さげすまれ、無視され、恨みを抱かれ、憎まれて、死を迎えざるを得ない十字架への道が始まったことを意味していた。
 たとえ、主イエスの世界支配の使命が実現しないように見えても、そして、死以外に受け取るものは何もないように見えても、主イエスは、神にのみ目を向けて歩くことを決意されたことが分かる。
11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた
サタンによる放棄
 こうして聖書は、ここで荒れ野の誘惑の記事を結んでいる。
 ここで出ている、「離れ去った」と訳されている言葉は、「行かせる」とか、「見捨てる」という意味合いを含んだ言葉である。
 すなわち、「サタンは離れ去った」というのは、「サタンが、主イエスを、行かせた、あるいは、見捨てて行かせた」ことを意味する。
 このことは、ここでサタンは、自分の親切な提言に従わないイエスを見捨てて、離れ去ったことを示している。サタンに見捨てられた者は、この世では生きられない。見る影もなく、十字架の死を担わねばならない。
すると、天使たちが来てイエスに仕えた
天使の接近
 しかし聖書は、「天使の接近」を付け加える。サタンが離れ去ったのに対応して、天使が近づいたとされている。そしてこの天使たちは、主イエスに「仕えた」とある。
 「仕えた」という言葉は、「執事の努めをする」ことを表す言葉である。天使たちは、主イエスに、執事のように仕えたことが分かる。
結語
 世界を救い、これを支配するために、また、この世に来たり給うた主イエスの使命を果たすためには、この世に理解され、受け入れられる道を通らねばならぬ。そのためには、ただ一人の神を純粋に拝するだけではなく、この世の悩みや弱さを理解し、パンを与え、神の力を現実の奇跡として人々に示し、自分がメシアであることを具体的に示さねばならない。だから、唯一としている神と共に、ほかの神をも拝し、少しばかりの妥協をすれば、世は主イエスを受け入れ、世の支配者として立つことが出来る。これが、サタンの提言であった。
 主イエスは、ただひとりの神を拝して、この提言を拒否されたために、人々には受け入れられることはなくなり、十字架と死の道を選択せざるを得なくなった。そして、世界で一人、悲しみの人となり給うた。
 しかし、この悲しみの人を、天使たちが支えた。そして、イエスの生涯が終わったとき、真実と霊に燃えた人々が、天使たちの後に従って、主イエスに仕えることになったのである。
 ある牧師が困難に出会い、訴え書を上部に提出しようとした。すると、「そのことをしなければ、わたしはあなたを全面的に支持し、上部の役職をつけましょう」と上部に言われた。これを飲んでいれば、彼は上部の長あたりにはなっていただろう。しかし、その時彼はNoと言い、訴え書を提出した。その時から、彼らは完全にこの牧師を離れ、捨て去った。そして、彼らはかすかな不安におののき、牧師は平安の中に過ごすことになった。牧師は、主イエスの如く歩いたことを、誇りに思いながら時を過ごした。
 真実と霊に燃える人々は誰なのか。悲しみの人を捨て置くことの出来ない人々は誰なのか。それは、悲しみの中から救われて、恵を与えられた我々ではないか。このことを思うとき、安閑と日を過ごすことは出来ないはずである。