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主題聖句 タイトル
使徒3章1〜7節 御名によって歩く
午後3時の祈りの時
 使徒言行録は、「
01ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」と伝えています。ここでは、「ペテロとヨハネ」とあります。弟子たちは、主イエスのお教えを守って、二人づつ連れだって行動したことが伺われます。ペテロが主の教えを伝え、それを証人として支持するが如くに、黙して傍らに立つヨハネの姿は、弟子たちの信仰の有り様を示しているようです。
 ≪午後三時の祈りの時≫とあります。ユダヤ教では「夕べの祈り」の時でしょう。≪神殿≫というのはヒエロンと言って、神殿の境内に当たります。ユダヤ教徒は、祈りの時にはここに入り、熱心な祈りを捧げます。弟子たちもこのユダヤ教の敬虔をもって、神殿に入ったと思われます。もちろん、彼らは、主イエス・キリストの弟子として、福音を促進するよい機会を得るために、ここに入ったことは言うまでもありません。
 大勢の信心深い人々が集まり、神を礼拝するこの時ほど、真の神について話をする絶好の機会だったに相違ありません。彼らは、ユダヤ教の強大な支配のあるこの神殿で、果敢に主イエス・キリストについての信仰を披瀝したことが分かります。
 今日において宗教の支配は希薄になり、弟子たちの状況とは大きく違いますが、宗教ではなく世俗が、この時代を強力に支配していることにおいては、状況は類似しています。そして、この世俗という神に対して、主イエス・キリストを信じている私たちが、弟子たちのように果敢に信仰を証していくことが出来るかどうかについて、弟子たちに学びたいものです。
美しい門のほとりで
 さて、使徒言行録は、「
02すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」と伝えています。
 ≪生まれながら≫というのは、聖書的に表現すれば、「母の胎から」ということになりましょう。この男の人は、母親の胎内から生まれた時に既に、足が立たなかったことが分かります。
 ≪足の不自由な男≫と書かれていますが、使徒言行録4章22節によりますと、≪四十歳を過ぎていた≫とあります。すなわち、生まれてから40才になるまで歩いた経験がなく、生涯、そこにあるがままであったことが分かります。このことは、≪運ばれてきた≫という書き方の中にもその有様がうかがい知られます。すなわち、この男の人の状況は、普通よくあるような、足が不自由だというようなものではなく、ただ横たわる以外になすすべがないほどであったと思われます。
 更にこのことは、≪神殿の門の側に「置いて」もらっていた≫という言い方の中にも現れています。あまりの哀れさに、彼を毎日境内まで運んでくれる信心深い周りの人たちが居たと思われます。これらの善意はユダヤ教特有のもので、≪施しを乞うため≫という発想は、ユダヤ教の敬虔から出たものでした。ユダヤ教では、人に施すことは、功徳となって、神の救いを得る重要な行為だったからです。
 ≪美しい門≫は、学者によって意見が違いますが、東側から婦人の庭に入る門であるらしいという人もいます。この門のそばに置かれて、彼は、そこを通る敬虔な信徒たちに施しを乞うたのです。
じっと見つめる目
 使徒言行録は、ここで、「
03彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた」と言って、ペテロとヨハネに関係させます。この男の人は、いつものように、通りがかったペトロとヨハネに、施してくれるように声を掛けたのです。
 これに対して使徒言行録は、「
04ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った」と記しています。ここで起こっていることは、ペテロとヨハネが彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言ったことだけです。すなわち、弟子たちは、この男の人をしっかりと見ているということです。
 「見る」は、非常に大切です。相手をしっかり見るということは、その人の人格を大切にすることに繋がります。多忙さや傲慢さから、相手を見る余裕もなく為される対話は、屡々トラブルを招きます。そうなるのは、人間にとって最も大切な人格的な尊重に基づいた対話でないからです。
 使徒たちは神のご意志の代行者(ministres)であると自覚していましたから、自分たち自身の衝動や欲求からは何事もすることはありませんでした。彼らは、神がそうしようと意志し給うときに、彼らを通してそのご意志を実現なさると知っていたからです。従って彼らは、そのご意志と神の働きを見ようとして、彼を見たと考えられます。
 すると、「
05その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」とあります。このとき、この足の不自由な男は、目を見つめたのです。「見つめる」というのは、非常な期待を持って見ることです。この目は、彼の生涯で初めて見せた目の色を示していたに違いありません。大きな期待を持って、彼は弟子たちを見つめたのです。すなわち、ここでは、互いに「見つめ合う」ことが起こっているということです。
驚愕を与える命令
 この見つめ合いの中で、「
06ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。
 ここでペトロは、「金や銀はないが」と言っていますが、これを聞いたこの男の人は、多分がっかりし、またペトロを馬鹿にさえしたかも知れません。ペトロに「わたしたちを見なさい」と言われて、目を見開いて、大きな期待を持ったにもかかわらず、何も期待に応えないペテロを、力のない、役立たずと感じたことは当然なことではないでしょうか。彼にとっての目的は、暮らしを立てる金銀以外の何ものでもなかったのですから。
 しかしペトロはここで、この男の人が想像もしなかったことを命じています。それは、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩くこと」でした。このことは、生まれたときからのその病気が治るなどとは考えたこともなく絶望していて、自分の暮しのことを要求する以外には何事も気にかけることが出来なくなっていた彼にとって、まさに、あり得ないとして絶望し、考えの端にもなかったことでした。
御名の持つ威力
 しかもこの「歩け」という命令は、「ナザレの人イエス・キリストの名」によって行うことが命せられたのです。当時、「名」は、名を持つその人の本質で、力を持ったものとして考えられていて、奇跡はこの名によって行われていました。これは、魔術的なものとしてではなく、人格的な力の現れとして感得されていたようです。
 そしてここで言われている「名」は、あの「ナザレの人」の名です。人に蔑まれ、十字架に掛けられた忌まわしい「名」、しかし、神によって復活させられ、あらゆる権威を超えた全権を与えられ、メシアとして信じられている「名」です。この名のもとに「立ち上がって,歩きなさい」と命ぜられているのです。
使徒言行録は、「
07そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、08躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」と伝えています。
 ここで、「右手を取って」とあります。彼がペトロの手に触れたとき、イエス・キリストの名」が持っている偉大な力の流入を感じたに違いありません。触れている手を通して、あの「ナザレの人イエス・キリストの名の持つ力と、自分に対する深い理解と愛情が伝わってきたに違いないのです。
衝撃的な救い
 この男は、この思いも及ばないことを聞いて驚愕しいるところに、イエス・キリストの名が持つ実質的な力が伝わるという二重の衝撃が、彼の意識を完全に変化させ、「歩く」という気持ちに変えたに相違ありません。だから彼は、躊躇もなく、「躍り上がって立ち、歩きだした」のです。このことから、救いは、一瞬にして現れ、人間の絶望は突破され、驚愕のうちに瞬時にして実現することが分かります。そして、躊躇なく神賛美へと駆り立てられるのです。
 今日の沖リスト者と教会が、この驚愕を本当の意味で経験したならばと、心から祈るばかりである。救いの現実人触れて、躊躇などしている余裕は人間にはないのであるから。