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主題聖句 タイトル
ルカ1章9〜45節 マリアの幸い
山里へ向かう
 聖書に、「
39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とあります。
 ここで、「・・・・出かけて、急いで・・・・」と言っているのは、単に急いで出かけたという方法だけを意味しているのではなく、目的の達成を熱心、真剣に求めて急ぐことを意味しています。
 「ユダの町」というのは、おそらく、エルサレムの郊外、6,7キロのあたりの山地にある町を指しているのでしょう。なぜなら、当時のエルサレムには祭司のごとく一部の人たちしか住んでおらず、大多数の祭司たちは、ユダの田舎町(おそらく村程度の町)の山手に住み、ザカリアがそうであったように(1:23)、努めの期間だけエルサレムに「上り」、それが終わると自分の家に帰ってくる」という事情にルカは精通していることが分かるからです。
 マリアは、深い信仰を心のうちに抱きながら、エリザベトに挨拶するために山里へ向かいました。マリアは、天使のみつげを受けてこれを信じた時、親戚のエリザベトも不思議な仕方で身ごもっていることを思い出しました。彼女は長い間、子供が授けられず悲しんでいました。しかし、主の言葉によって子供が今、自分のお腹の中に居ることを知っています。マリアは、この「不思議な仕方」で子供を宿したという事実に注目して、エリザベトの住む山里へと足を運びます。そして、エリザベトに於けるこの事実に出会うことによって、自分の懐妊についてどんな意味が隠されているかを見極めようとしたのでしょう.。
シンパシイを求めて
 天使のみ告げによって、不思議な仕方で神の子の受胎を知らされたマリアが、今このみ声を信じて喜びながら山里へと向かっています。主に祝福された人を尋ねることは喜びです。エリザベトはそのしるしを今体内に持っています。
 エリザベトが不思議な仕方で近づき給うた神を信じるまでには、様々な動揺、不安、そして確かな信仰が息づいていたことでしょう。そのような中で、エリザベトが、それを乗り越えて主の祝福をどのように信じたかを聞いて、自分の経験に重ねたかったのでしょう。
 神に対する共通の想いを交わし、その不安や期待を共有することほど喜ばしいことはありません。人は、一人では生きられません。自らの確信や不安を隣人との交わりの中で交流させ、そこに共通の意味を見いだすとき、それは、大きな喜びとなって人の心を満たすのです。
 聖書は、「
40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」と記しています。人の交わす挨拶は、人の心が一つであることの表現です。溢れるような信頼と共感をこめて、人は挨拶を交わします。人の交わりの中で挨拶を交わすことの出来ない関係は不幸です。それが近しい者であればあるだけ、悲惨と言うべきでしょう。人は挨拶を交わすことによって、自らを隣人の内に確かめ、共感と喜びを得、生きていることの確かさを経験するのです。
 人間の交わりによる喜びは、そこに心があるだけでは生まれません。そこにはその人が生き、行為している現実がそれを裏付けしていなければなりません。事実に裏付けされない交わりは真実のものではありません。心の中で考えられ、それが具体的な現実として表現されているとき初めて、人はその人の中に確かなものを見いだし、それが相共通するものであれば共感と喜びを得るのです。
 不妊の女と言われたエリザベト、処女であったマリア、この二人の受胎は、これが、人間の業ではなく、神の業であったということの確認、そしてそこにある神の意志と使命による意味とを知るために、マリアは出かけたことが分かります。
不思議なことを受け止める
 ルカは、続けて、この出会いは、「
41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」という出来事を引き起こしたことを伝えています。
 マリアは、具体的な現実の中で身重になっているエリザベトを見、その事実によって神の働きの確かさを一層確信し、エリザベトは自らの胎内でその子がおどるのを経験して、神の大いなる働きと力を現実的に認識したのです。この認識によって、神のみ業に対する確かなしるしを二人は得たのです。こうして、不思議な仕方で実現する神のみ業をエリザベトとマリアは信じました。
 今日においても、人生を豊かにするのは、不思議なことをどう受け止めるかにかかっています。文化が発達し、個の自由が浮き彫りにされ、その結果、社会因習が取り払われ、生活の習慣や規則が緩和された現代にあって、人の周りには「不思議なこと」が溢れていることに気づくことが出来るようになりました。「人格は、常に他の人格を拒絶する」という真理は、現代社会を覆い、不安や焦燥の原因となっています。規則や因習が埋めていた深淵が、今、人格と人格の間に姿を現してきています。この埋めることの出来ない深淵を越えて、人は生きることを考えなければならなくなっています。これが、人を不思議なことを受け止めることへと導いています。従って、今日ほど、エリザベトやマリアの思いを理解することが出来る時代は無いということが出来ます
信仰は謙遜です
 不思議なことに出会って、これを信じた彼女たちは、大いなる祝福を覚えました。聖書は、「
エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」とエリザベトに言わせています。
 エリザベトは、自分の中にある生命が胎内で踊ったという、この確かなしるしに基づいて、マリアを祝福します。年齢を超え、身分を超えた二人の関わりは美しく、神のみ言葉に絶対的に従った二人の姿が浮き上がります。身分から言えばエリザベトは祭司の妻、マリアは大工ヨセフの許嫁に過ぎない乙女です。いかに姻戚関係にあるとは言え、二人の間には対等な関係はありません。祝福を言うべきはエリザベトの方ではなく、マリアの方であるはずです。しかし神の言葉は麗しく二人を結び付けています。神の言葉によってそれぞれの使命を負わされた二人は、生まれ出る二人に先立って一つにされ、み言葉の成就のために心を会わせることになったのでした。
 そして更に、エリザベトはこの共感を通して深い謙遜の中に導かれて行きます。「
43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」とエリザベトは言っています。彼女は、その使命の故に、救い主の先駆けとなる人の母となることを自覚し、救い主の母となるマリアに対します。ここでは、年齢や身分、そしてそこから生まれた豊かな経験など、一切が乗り越えられ、考慮の中から除かれています。そこでは、み告げだけが考慮され、そこで定められた役割だけが全てを支配しています。エリザベトは、このみ言葉に従ったからこそ、年若いマリアを主の母と呼ぶことが出来たのです。それは、自分の使命を理解した女性の深い謙虚からの叫びでした。
 そこで、このような謙遜はどこから出たかに注意を向けなければなりません。このことについて聖書は、「聖霊に満たされて」と言っています。自らの役割についての理解と、そこから来る謙遜は、聖霊に満たされた結果得たものだということが分かります。すなわち「神の霊の照明」によって、メシアの母が自分の前に立っていることと、自分の子は「エリアの霊と力を持って」メシアの道を準備することを理解したのです。ルカは、このことを通して、イエスが神の子であると認識出来るのは、霊に依るのみであることを伝えようとしていることが分かります。神の霊の助けがあって初めて、自分の現実と使命が認識され、その客観的な認識が、エリザベトを謙遜な姿に導いたことが分かります。
信仰は喜びです
 エリザベトはこの思いを、「
44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」と語ります。エリザベトは主の母であるマリアの挨拶の声を聞いたとき、神のご計画の内でそれぞれが光栄ある使命を負わされていることを理解しました。そのことは、胎内の子が喜び躍ったという表現であらわにされています。
 この二人の間の交流によって、理性的な適合性に関する不安や恐れは、喜びに変えられています。キリスト教的交わりは喜びなのです。み言葉に対する服従は、あらゆる困難を克服して喜びへと人の心を導いていきます。このとき、マリアとエリサベトとの間は、神に対する信頼と溢れるような喜びで満たされたのです。
 人は、様々な思いや計画を持ちます。しかしそれは、残念ながら大きな欠けと矛盾を含んでいます。それを補うのは、不思議なことに聴き従おうとする姿勢です。自分に理解出来ないことに、必ず神様からの意味が置かれているという信仰と謙虚な姿勢が、人間の欠けを補い、より高い、更に豊かな人間の暮らしを約束してくれます。人は知っていて本当は知らず、聞いていて本当は聴いておらず、悟っていて本当は悟っていません。聴き従うことを人がやめた時、その人の人生はそこで枯渇し、失われます。常に謙虚であることが必要だということです。
 エリザベトは、「
45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言って、マリアを祝福しました。こうしてエリサベトは、主の告知を必ず実現すると信じたマリアを、幸多き者として認識することへと導かれます。
 すなわち、エリザベトがマリアの信仰の故に讃えたという事実は、マリアに対してはずっと年上のエリザベツが「しるし」となり、マリアの信仰に確証を与えてくれたということを意味しています。ここに幸いがあるのです。
 人間のこさかしい権威や業績、富や地位、僅かばかりの知識や悟りなどによって、人は幸いを得ることは出来ません。真の幸いは、自分が神のご計画の中に組み入れられ、本質的に意義のある働きをしているのだという確信に溢れるときに生まれます。神の恵みの中で、神に生かされている時だけ、本当の幸せを体験できるのです。
 エリザベトの体内のこの喜びとマリアへの祝福の言葉を通して、ルカは、エリザベト物語とマリアの物語の、それぞれ別々にあったであろう物語を、見事に連結させ、メシア到来の一連の物語へと、見事に形成しているということが分かります。 
 マリアは、エリザベトとの出会いを契機に、いよいよ、「主の母」であることを確信して、主のご計画の一端に、エリザベトと共にあることを確かめて、自分の家に帰ったことでしょう。神の不思議な業を確信して、喜びを共に出来たことを、心から感謝しながら。