日本キリスト教団 綾瀬教会は安心と主体的なライフスタイルを提供します。   
   
     マタイ5章9~9節 平和を実現する人々の幸い

09平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
平和
 イエスは、「平和を実現する人々は、幸いである」と語られた。
 平和は、ヘブライ語では「シャローム」という言葉である。ユダヤ人がこの言葉を口にするとき、そこには否定的な意味合いは全くない。この言葉は、悪いことが起こらないようにとか、争いがないようにとかいう、消極的な視点は皆無だという特色を持っている。そこには、善いことに対する強い指向性が有り、そこには善いことがすでに有り、これから、すべてのよいことが起こる様にという願いだけが満ちているのである。ユダヤ人は、この願いに溢れて、朝に晩に「シャローム」と挨拶するのである。」
 従って、東洋での挨拶である「サラーム・シャローム」は、相手の人に悪いことが起こらないよういということではなく、すべてのよいことが起こるようにとの願いに満ちているのである。
 当時、初期教会の学者たちを含めて、思想界の多くは、心と魂の間にある善と悪との葛藤に注目し、この葛藤を克服し、心の中の内戦が止んで、全面的に心を神に開け渡した人の幸いを説いていた。従って、平和は、人間の内面的な平和として取り扱われていた。
 しかし、イスラエルの人々は、その視点を異にした。彼らは、長い歴史の中で、外国に攻撃され、支配され、異邦人との間の軋轢に苦しみ、その中で、人間相互の関係に悩んできた。そして、彼らは、律法と預言者に身を寄せながら、最高の幸せを造り出し、この世が「住みよい所」となるように願い、ついには終末論的なメシア希望にまで行き着いたのであった。
 この終末論的メシアの国には、人間の最高の幸福をつくり出すすべてのものがあるのであり、すべての幸福を楽しむ希望が溢れているのである。
 従って、彼らが平和を意味するシャロームを口にするとき、魂の平安ではなくて、「この世がすべての人のために住みよい所となるように」という願いを持って口にしたのである。そして、この願いを達成することこそが、平和の内容となったのである。

実現する
 主イエスは、この平和を「実現する人は」と言われている。すなわち、「自分の心と魂の中に平和を実現する」という意味での「平和を愛する人【ではなく、「住みよい所」を造り出す人のことを考えておられる。
 平和を「愛する」という人々の中には、しばしば、「平和のため」という口実のもと、事態に直面して「必要な処置」を取ろうとせず、問題を回避し、将来に災いの種を残す人々がいる。
 しかし、主イエスが言われているのは。平和を「愛する」人ではなく、「実現する」人である。「実現する」という語は「造り出す」ことを意味しているから、平和を「造り出す」人は、この世にある人間関係を改善し、あるいは新しく造り変えて、そこを「住みやすい所」とする人のことである。
 ラビたちも、平和について、人間の関係が整わなければ、平和は来ないとして、人間の果たす最高の役割は、人と人との間に正しい関係をつくり出すことであると考えていた。
 従って、平和を「実現する人」は、問題に直面し、たとえその道が苦闘の道であっても、あえてそれと取り組み、克服することによって、積極的に対処し、「平和をつくり出す人」のことである。
 イスラエルほど、人間関係における平和を造り出したいと努力した民はいなかったであろう。平和が実現することを願って、シャロームと挨拶し合う明るさを、痛み無しに受け取ることなど出来ない。「自分の心と魂の中に平和をつくり出す」ことに終始して、人間関係について何の改善の努力もしないで、「平和を愛する」人になることなど、「平和を実現する人々は、幸いである」と言われるイエスの意図の中にはない。
 人の中には、紛争、対立、分裂を起こし、争いをつくり出す人がいる。反対に、その人の前では憎しみは消え、仲違いを調整し、不和を和らげ、対立感情を解消するような人が居る。人と人との間を裂く人は悪魔の業をなし、これをまとめる人は神の業をする。
 心から平和を造り出したいと意志する人は、その道が苦闘の道であっても、この世を住みやすいところとするために、預言者の如くに、あえてその道を歩くのである。

神の子
 このような平和を造り出す人々は、「神の子」と呼ばれるとイエスは言われる。
 この言い回しは、典型的なヘブライ語的な表現で、ヘブライ語は形容詞が豊富ではないので、抽象名詞をを使って表現する語法がある。例えば、「平和な人」を「平和の子」、「慰めを与える人」を「慰めの子」という風になる。従って、「神の子」は「神のような働きをする人」となる。
・神のような働きをする人というのは、たとえば、ローマの信徒への手紙一五章三三節の「平和の源である神が一同と共におられる」様な場合である。また、コリントの信徒への手紙Ⅱ一三章一一節の「喜んでおり、完全な者になり、励まし合い、思いを一つにし、平和を保ち、愛と平和の神が共にいてくださる」場合である。さらに、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ五章二三節の「平和の神御自身が、人々を全く聖なる者としてくださり、霊も魂も体も何一つ欠けたところがなく守られ、主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださる」場合である。そして更に、ヘブライ人への手紙一三章二○ー二一節の「永遠の契約の血による羊の大牧者、主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってしてくださり、御心を行うために、すべての良いものを備えてくださる」場合である。
 ここで語られているのは、総称して、「平和の神と共にある」者の姿である。主エイスにおいて人間と神との和解が成立し、終末的な平和が実現されているのである。。
 従って、神の子というのは、その人の前に立つと憎しみが消えてしまう様な、温厚な人を単に意味しない。この点では、主イエスは、ユダヤ人の憎しみを買ったような真逆の人であった。主イエスは、隣人を愛する故に、真実を語れる人であった。そして、その真実は、争いの息の根を止め、軋轢を克服し、愛と交わりを呼び起こし、人間関係を改変し、喜びを満たす。そして、その実現の手段は、福音の中に溢れている。
「子」という名は、神との関わりにおける人間の位置を定めている。神は、自分の栄誉や、地上の物質的配慮から自分自身を解き放ち、主に服従するすべての者に、御自分の愛と賜物を永遠の豊かさのうちに分かち与え、神の子としての権威を授け給い、子は、愛の主、イエス・キリストの成し遂げたもた神との和解によって、神の姿と神の像の中に留まり続け、自分の周りに平和を創り、広げていく。これを、幸いと言わずになんと言おうか。
 真実を語り合える交わりを作ることこそが、真の平和が創り出せることを知るのである。
 しかし、未だ、人と人との間の和解は、完全には実現されていない。まず、キリストの身体である教会において、平和は実現されなければならない。これこそが、教会とキリスト者の重要な使命である。




  
 
 00000000