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     マタイ5章8~8節 心の清い人々の幸い

08心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る
清さへの憧れ
 ここで使われている「清い」という言葉は、清潔で、汚れのないものを想像させる。主イエスがこの言葉を語られたとき、清潔への望みが人々の思いを満たしたであろうことは推測される。
 実際、人の暮らしの中には、数々の不純なものが入り込んでいる。人の世は、清いものどころか、汚れに満ちたものに溢れていると言っても過言ではない。特にこのことは、イスラエルの民こそが、その永い不幸な歴史の中で経験したことであった。
 本来、この言葉は、「清潔」ということと同時に、「籾殻を取り除かれた穀物」、すなわち、純粋に脱穀された実りを表す言葉であった。
 また、「兵隊たちの中から、その任務に不服を感じている者や臆病者や無能力な者を取り除いた精兵」を意味していたし、「水増ししない牛乳や酒、化合物のない純粋な金属などについて述べるときに用いられる言葉であった。従って、「清い」は、清潔とは別の、特異な意味を持っていたことに留意する必要がある。
 イスラエルの民が、この世の汚れの中で苦しめば苦しむほど、彼らの心の中に、清潔で純粋なもの、精錬され、選別されたものを求める激しい思いに溢れたであろうことが、想像に難くない。この思いが、唯一の神への信仰に結実していったのである。

イスラエルの努力
 イスラエルの、この清さへの憧れは、現実的な汚れの中で、汚れた者と清い者との区別を峻別するという方向に向かっていった。聖書には、「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、葡萄酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。これは代々守るべき不変の定めである。あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである」と、レビ記10章10節には規定されている。イスラエルにとって、この「聖と俗の区別」こそ重要であった。
 しかし、このことは、決してうまくはいかなかった。この世は、みにくいもの、病、様々な苦悩に満ちている。聖と俗を峻別し、俗を離れて聖に生きることなど、人間には本質的に出来ない。ここに、イスラエル独特の伝統に基づいた「定め、おきて、律法」に支えられている儀式的範疇に組み込まれた概念が発生する理由があった。
 伝統に基づいた「規定」に適合しておれば「清く」、これに違反しておれば「汚れ」として扱う祭儀的手法が支配することは必然だった。ここに、ユダヤ教の律法が発達する基礎があったのである。
 ユダヤ人が頻繁に起こす規定違反の罪は、定められた規定に合致した祭儀的な贖いの手法による贖罪儀式によって、神の前での「規定に合致した義」を回復した。
 病は、その医学的な処置による完治ではなく、祭司が執り行う、不浄を取り除く祭儀を通して、「清い者」と宣言されて初めて完治した。
 このようにして、祭儀的宗教としてのユダヤ教は確立していったのである。罪から自分の身を守り、聖を保とうとする人間の努力は、おびただしい規定を作り出すことになり、律法の一点一画をも犯さない行為は、イスラエルの義の根拠となったのである。

純粋なものを求める努力
 しかし、一方、その祭儀は、ユダヤ社会の秩序の保持には、初めのうちは有意義あったが、次第に形骸化し、社会の根底に罪を隠蔽する結果を生むことになり、人の心の内部まで届く救いには到底至らなかった。
 このような祭儀に飲み込まれていく心を取り戻そうとする努力も、聖書には見られる。エレミヤ書13章25-27節には、「お前がわたしを忘れ、むなしいものに依り頼んだからだ。わたし自身がお前の着物の裾を顔まで上げ、お前の恥はあらわになった。お前が姦淫し、いななきの声を上げ、淫行をたくらみ、忌むべき行いをするのを、丘でも野でもわたしは見た。災いだ、エルサレムよ。お前は清いものとはされない。いつまでそれが続くのか」とある。ここで、預言者は、偶像や異教的祭儀に関わることに関係して、その罪を指摘しているのである。
 また、日常的な清さについても、ミカ書6章11節には「わたしは認めえようか、不正な天秤、偽りの重り石の袋を」とも語られている。ここで願われていることは、現実生活において「罪がないこと」、「ピュアーであること」、「誤りがないこと」である。
 従って、ここでは、人は、異教から身を離し、心の中を清くするために細心の注意を払い、良心を働かせなければならないことが強調されている。
 しかし、このような、純粋を求める生き方が、この世で、簡単に貫徹出来るものでないことは明らかである。純粋であればあるほど、この世では惨めになり、悪の栄えを見なければならない。
 詩編73編13節には、「わたしは心を清く保ち、手を洗って潔白を示したが、むなしかった」とある。ここでの「清く」と訳されている言葉はヘブライ語で「ザーカー」と言い、自分の意志によって悪から離れるという意味を持っているが、その努力は、いたずらに心を清める努力でしかなく、むなしく終わったとしている。
 心を清く保ったり、そうなりたいと手を洗う行為は、道徳的修養目標と関連した応報思想から出ているとも言われるが、元々、応報思想などのような人間の力によって、人の心を悪から引き離すのは至難で、不可能なのである。
 人の心は、罪への傾向を強く持っていて、宗教的な純粋さを失っていると言うよりも、純粋に宗教的にはなり得ない存在なのである。
 だからこそ詩編は、「ヒソプの枝でわたしの罪を洗ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗って下さい、雪よりも白くなるように」と詠っているのである。
 これは、人間が自分の力によって清くなり得るということに絶望し、神の力によって清くされるしかないという信仰がその基盤にあることを示している。
 こうしてついに、詩編51編19節には「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いることを、神よ、あなたは侮られません」と詠い、人間に要求されるのは、砕けた心のみであることが強調されているのである。

罪からの自由
 このような清さに達する努力は、詩編24編4節の、「それは、潔白な手と清い心を持つ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」という言葉に帰結していく。
 ここで用いられている「清い」という言葉は、創世記24章41節の、「解かれる」、またヨシュア記2章17節の、「罪を犯しません」など訳される言葉であるが、本来は「罪から自由である」という意味を持った言葉である。罪から自由であるから、「清い」ということが出来る。
 詩編11編1節は、「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず・・・・」と言って、「・・・・しない人は幸い」という形で、悪に対する否定と、罪やとがめからの自由を表現するが、エゼキエル書36章25節は、これを更に深めて、「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める」と言って、神の霊に満たされることによる、内面的・精神的清めにまで深めている。
 このように、神の霊により清められ、新しく生まれることがなければ、神の民として生きることが出来ないことが強調されている。「罪からの自由」は、もはや、人間の力では得られないことは自明なことである。
 従ってここでは、主の赦しの下で、契約を新たに結び、真の水、すなわち霊によって洗われることによって実現される人間性の根底からの革新が、正しい神関係の確立のために必要であるという信仰が台頭しているのである。
神を見る人々
 主イエスが、「心の清い人は幸いである」と言われたとき、聞いている人々は、祭儀的贖罪とともに、神が注ぎ給う水による人間の革新の力を理解したはずである。イエスの言葉と人格とその業への信仰の応答によって、このことは実現可能とされる。取税人や罪人たちとの食事の汚れを超えて、新しい愛の関係に入る道が開かれる。彼らはこのことを理解したのである。
 清くなるための人間の努力は、確かにむなしい。しかし、むなしいから、その努力を取りやめるなら、そこからは何ものも生まれない。だから、むなしいものに直面する勇気と、それでもなお清くなりたいという願望に燃え立たねばならぬ。そこでの挫折の中でこそ、キリストの十字架と復活の恩寵が見えてくるのである。
「神を見る」は、「興味のあるもののみを見る人間の目」に対立する。隣人との交わりでの奉仕と十字架の経験の中で、その動機において自己が消滅していくのを知り、そのことをひそかに楽しむとき、人が清くなるのは神の力によることが分かる。
 神の恩寵によって清くなる者のみが、神のみ業を見ることが出来る。神を見ることが出来る、これ以上の幸いはない。


  
 
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