日本キリスト教団 綾瀬教会は安心と主体的なライフスタイルを提供します。   
   
     マタイ5章7~7節 憐れみ深い人々の幸い


07憐れみ深い人々は、幸いである、
隣人への同情
 
ここで、「憐れみ深い」というとき、まず、困難な状況に遭遇している人に対して同情する時のことが心に浮かぶ。詩編109編11編12節には、「彼らのものは一切、債権者に奪われ、働きの実りは他国人に略奪されるように。慈しみを示し続ける者もいなくなり、みなしごとなった彼の子らを、憐れむ者もなくなるように」とあり、箴言14章31節にも、「弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を哀れむ」とある。
 これは、人間同士の深い同情を示すもので、このような同情を心に溢れさせている人は、豊かな人生を歩くに相違ない。それは、人間と人間の深い同情による交わりは、暖かな雰囲気を造り、互いに助け合っていく生活を形づくるに違いないからである。

近親者への愛情
 また、「あわれみ」というとき、詩編103編13節に「父がその子供をあわれむように」とあり、イザヤ書13章18節に「腹の実をあわれむ」とも言われているのを思い出す。
 これは、「あわれみ」という言葉が、子を宿す「胎」に関係していることから来ている。親が子をいとおしんだり、兄が弟を抱く深い愛情を示していると言える。
 このような、近親者間の愛情は、隣人への同情よりも深い重みをもって人を支えるもので、父親を首長とする家族関係で成り立つイスラエル社会にとっては、一層重要なものであったと思われる。
 今日、世相がすさみ、家族間の殺害の事件が頻発し、寄る辺のない人間の、終末的な状況を、否応なしに認識させられてはいるが、人が生きていくに際して、家族間の信頼に基づいた関係は、早急に取り戻さなければならない重大な問題だということは明らかである。

契約関係における愛
 これらのことを思うとき、神がイスラエルに示された、もう一つの「あわれみ」が心に留まる。たとえば、捕囚のイスラエル人に対して、過酷な取扱をするバビロニア人について、「あわれみを施さず、年老いた者の上に、はなはだ重いくびきを負わせた」と語ったイザヤ書47章6節の言葉である。
 これは、残虐な行為に対する人間相互の感情を示しているが、実に深い同情を意味するものである。この心情は、神とイスラエルとの間に交わされる憐れみであり、人間相互の感情とは様相を一変する。
 神の憐れみは、弱さ、惨めさ、助けのない状態にあるイスラエルに対して注がれるが、この神の行為は、単なる同情、恣意的な人間的感情ではなく、「イスラエルとの契約」という関係がその根底にあることが特徴になっている。
 列王記下13章23節には、「しかし、主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨てることはなさらなかった」とあり、また、ヨエル書2章18節には、「ヤハウエが「その民をあわれまれた」ともある。
 ここには、一度、神が立てられたイスラエルとの契約を、いかなる状況が発生しようとも貫徹される様子が示されている。
 このような愛情は、「同情」とか、困っている人を「気の毒に思う」ような感情をはるかに超えて、「他の人の心の中にまで入ってその人の立場で物を見、その人の身になって考え、その人が感じるように感じる」、このような、強い意志に支えられたものだということが分かる。これには、気の向くままに同情するのではなく、はっきりとした心情と意志が必要であり、時には自己犠牲を覚悟した決意がある。神がこのようになさるのは、一重に、イスラエルとの間に結んだ契約の履行の意志がおありだからである。
 神は、契約の民の中に入り、一緒にその困難を経験し、共に苦しまれる。本来、苦しむ必要もなく、ご自分の罪の故でもない苦しみを、民と共に担われる。
 このことは、一重に、自分を捨て、恥辱の中に身を落とす強い意志を持たなければ、出来ないことである。しかし神は、それを強い意志をもってなさるのである。
 キリスト者は、このことを、主イエスのこの世への下降と、十字架の死の中に、はっきりと見ているのである。ここに、神の憐れみの最大のしるしがあるということが分かる。

正義、公平、慈しみ、あわれみを基準とする契り
 更に、この契りの特色については、神は、恣意的に結ばれたのではなく、ホセア書2章19節に、「正義、公平、慈しみ、あわれみをもって契りが結ばれる」とあるように、神とイスラエルとの契約は、「正義、公平、慈しみ、あわれみ」の実現のために神が定め給うたものであることが分かる。
 ハバクク書3章2節に書かれているように、神は、イスラエルを見捨ててよいにもかかわらず、神が、あわれみをもってその道を示し、その民の中に入り込み、共に苦しみ給うとき、正義と公正に向かっての、行くべき道が示される。
 「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」ともある。
 確かに神は、その愛と契約の故に、人と共に苦しみを分かち給うのであるが、それは、人の罪に同情し給うばかりではなく、そこで起こっている不正をただし給うためであることが分かる。このためには、人格的に人に関わり、それを実現しようとされるのである。
 この意味で、憐れみは、真実と同一であって、フィリピ書2章27節に「実際、彼は瀕死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」とあるように、病める者には癒しとなって現れる。神は、このように、人に挑み給うのである。

憐れみの器
 このように、聖書は、この意味での「あわれみ」については、もっぱら、神について語り、人間については語らない。従って、ここでの「憐れみ」という言葉は、「人間が誰かを憐れむ」という意味ではなく、「神の憐れみを受けた者」の憐れみを意味している。
 もし憐れみの人になろうと思うならば、テトス書3章5-6節や第一ペトロの手紙1章3節にあるように、「わたしたちの力によってではなく、ただ、神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちが救われる」ことによる以外にはない。
 このように、新約においては、ルカによる福音書10章30-34節にもあるように、憐れみの契約の適用範囲が、契約に入れられた兄弟の範囲を超えて、「隣人」に広げられており、また、その内容は、マタイによる福音書23章23節にあるように、公平または平等と組み合わされていることが分かる。
 神に捨てられるほどの、罪深い者だと自らのことを知り、貧しさと悲しみの果てに柔和になり、悔い改めるキリスト者は、本来確かに隣人の立場に立つことを拒み続ける者でありながら、神から受けた憐れみのありがたさに、隣人に対して、僅かながらも哀れみの情を起こすことが出来るようになる。
 第一ヨハネの手紙3章17節には、「兄弟が困っているのを見て、憐れみの心を閉じる者」には神の愛が働いていないとあり、また、マタイによる福音書9章13節、12章7節や、ホセア書6章6節などでは、「神の好むものはあわれみであって、いけにえではない」などとも言っている。
 この神の憐れみに触れて、神の愛が働いているからこそ、兄弟が困っているのを見て、彼の中に入り、共にその困難を経験し、苦しみを共有することが出来ると語られていることが分かる。
 そして、この、苦しみの共有を入り口にして、具体的に、キリストにおいて為された神のあわれみの全貌を、切実に理解することも出来るようになるのである。
 この意味で、神の憐れみは、人間の救いだということが出来る。パウロは、このことを、ローマ書9章23節において、自らを「憐れみの器」と言っている。人は、神のあわれみを受けて救われた故に、憐れみの器として立つことが出来るのである。
その人たちは憐れみを受ける
 感謝なしに、神の憐れみの中に留まることは出来ない
 ここで聖書は、幸いの内容を、「その人たちは憐れみを受ける」からだと説明しており、隣人を憐れむことが、神からあわれみを受けることに優先して書かれているが、それは、あわれみを受けて生かされているのに、他人の失敗や困難には冷ややかで、心を頑なにしている富んでいる人々が居たからである。
 神のように生きることは、人間にとって最高の栄誉である。しかし、人は、神のようには隣人の中に入って立つことが出来ない。神にであれ、人にであれ、その中に入って同じ立場になり、彼の現実を経験することなど出来ない。人と人との人格の間には、深い闇があって、理解し合うことも、相交わることも、決して許さない自我が存在する。
 信仰者は、自分の経験の高さの故に、冷酷になり、罪を裁き、重荷を更に負わせる高慢な人になることがしばしばある。これらの人々に対して、ここでは、受けた憐れみへの感謝から、兄弟を憐れまなければ、与えられている憐れみは取り去られると警告しているのである。
 隣人の困難を憐れまなければ、決してあわれみを受けることもないというマタイの原則は、あわれみを受けて生かされ、感謝の内に生きるキリスト者の救いの現実を明確に示唆している。キリスト者の為す憐れみの行為が、理解浅く、隣人の内に入って苦難をともに負うことからは、たとえ遠いとしても、感謝の内に、与えられた主の憐れみに触れ、これに取り込まれているならば、主キリストにあって、完全な憐れみの行為として受け取られるのである。
 主と共に、感謝の内に為される憐れみの行為を行う者の幸いは、キリストにあって、真実のものに変えられていく。なんと幸いなことか。この意味で、慈しみの心を持って隣人の苦しみに接する人こそ、幸いと言うべきである


  
 
 00000000