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     マタイ5章6~6節 義に飢え渇く人々の幸い

人は義の全体を満たすことが出来ない
06義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる
 まず「義に飢え渇く」と言う時の「義」とは何かを学ばなければならない。
 「義」という言葉をマタイによる福音書を遡って見てみると、主イエスが洗礼を受けられた時、洗礼者ヨハネに語られた言葉の中に同じ言葉が使われていて、そこでは「正しいこと」と訳されていることに気づく。すなわち、「悔い改めのバプテスマ」を受けるということは、罪あるなしにかかわらず、律法の規定に定められたことであるから、この規定に従うことが「正しいこと」だったからである。
 このことから、マタイは、「義」という言葉の内容を、「正しいこと」、即ち「律法の規定に合致していること」という意味で理解していたことが分かる。
 この世にある伝統や規定、特に神の言葉によって制定された諸規定は、それなりに重大な意味を持っている。これは、長年の間、人が生き、社会構造とその規範を構築したものであるから、人はその中で、定められている規定に合致して生きるのが、正しいことだということは心に留めなければならない。
 しかし、時の流れは、ただ漫然と流れているわけではなく、様々な、時には目に見えない変化をしながら流れている。そして、伝統や諸規定は、その流れから乖離してくる時がある。いかなる伝統、また規定であっても、本源は真理に基づいていながら、時代の状況に制約されているので、変化する状況に適合しなくなる時があるのである。
 この乖離が起こる時、人間の作り出す伝統や規定は有限性を持っていることを認識する謙虚さを持たなければならない。それは、人が、真理そのもの、神の本体を見ることから拒絶されているからである。
 人間が神を見るのは、時の状況の中に姿を現す神の姿を見るのであって、決してその本体ではない。本体を見たかのように、人間の認識を絶対視するところに、人の持つ本質的な罪があることを自覚しなければならない。
 従って、「正しいこと」と言っても、人は、真理全体を規定に定めることが出来ないので、人間が満たす、規定に合致した「義」は一部分にしか過ぎず、真理全体を満たすことは出来ない。

義に飢え渇くということの意味
 こう理解すると、ここで言われている義に「飢え渇く」という意味がはっきりしてくる。
 人が「飢え渇く」のは、義の全体を満たすことが出来ないから、飢え渇いているわけである。いわば、義の一部分を満たすことでは満足が感じられず、欠けた部分を満たそうとして飢え渇くのである。 6節の、義に「飢える」というのは、非常に強い表現である、パレスチナは砂漠や荒野に隣接した地域である。当時の労働者の賃金は、非常に低くて、一週間に一度しか経済的な理由で肉が食べられない、と言った状況があったそうである。
 聖書にも、ぶどう園で働く日雇い労働者の譬えがあるが、今日、明日、仕事にありつけるかどうかに揺れ動く人々は、飢餓のために生死をさまようほどの状況にあった。
 今日においても状況は同じである、この地域で豊かな地下資源は、その利権を持っている人のところに富を集中させ、労働者は食べるのにも事欠く状況は、かつての状況をなお存続している。
 「お昼時間の休憩だ。コンビニに行ってダイエット食を買ってきて、昼食を済ませましょう」といった類の暮らしをしている人の「飢え」ではない。食べなければ、生死に関わる状況での求めなのである。
 どんなに大きな飢饉が来たとしても、山肌を鍬で開墾しさえすれば、芋や野菜がすぐに育ち、すぐ下を流れるせせらぎに降りれば、二、三匹の小魚が捕れるような自然の中での飢えとは、比較にならないこの状況を、理解しなければならない。「主は、緑の牧場に伴い給う」というあの句の、悲しくも憧れに満ちた思いを、だれが理解出来るだろうか。
 また、人が、義に「渇く」というのも、非常に強い表現である。彼らがこの言葉を使う時、彼らは、砂漠で出会う熱風と砂塵のことを思い出しているはずである。この風に出会う時、岩の陰に身を寄せてこれを避けるのであるが、それでも、口や鼻や耳に砂が入り、喉はひりひりと焼けついて、渇きが全身に及び、まさに死ぬほどになるのである。「鹿が谷川の水を慕いあえぐが如く」という、命がけの求めがここにはある。
・従って、「義に飢え渇く」というのは、飢えで餓死寸前であり、飢えにあえいでいるにもかかわらず、また、そこから脱出する手だてがないにもかかわらず、虫の息の中から願う思いをもって、義の達成を願っている状況を表していることが分かる。

人は義を得られるのか
 それではなぜ、このように激烈に義を求めるのだろうか。人間には全体の義を完成することが出来ないことが分かっているなら、義の一部分の完成で満足すればいいではないか、と思える。
 しかし、人間は、そのようにはいかない。一つ一つの義の欠けは、極めて倫理的、社会的な動物である人間の関わりの中では、極めて深刻な問題を発生させる。
 人間の確信が時の流れと乖離するとき、そこには富の格差が生まれ、交わりに亀裂が走り、差別が生まれる。
 人間の交わりの中での最も重大な問題は、食に飢えることでもなく、喉が渇くことでもなく、そこから起こる差別に伴う人格の否定である。飢えや渇きは、高潔な人格においては死を意味しない。しかし、人格の否定に関する問題は、死に直結する。
 今日社会現象となっているいじめや差別の問題は、ひとえにこの人格の否定の問題に掛かっている。しかも、この否定は、かつての暴力的否定に必ずしも関係しない。むしろ、言葉の不毛、意思の疎通の障害にかかっている。
 職場の一部屋にあって、また、同じ屋根の下に居る者の間でさえ、そこにいる全員に聞こえないような会話がささやかれる。会話は、そこにいるすべての者に理解出来るような大きさと内容を配慮して為されるべきである。そうでなければ、隣の人格を、人間の関わりから排除するという結果を、たとえ意図していなくとも生むことになる。このことこそが、今日の社会が持っている最も深刻な病巣なのである。
 人は、全体の義の部分的な達成をもって、人間の徳の偉大さを過信し、人間の力が絶対であるかのように思いこむ。また、人間のこの可能性は、完全な義の達成に繋がると豪語しさえする。しかし、人間の歴史はそれを裏ずけてはおらず、聖書の時代と現代とでの進歩を見てみても、殆どその進歩は認められない。人間の傲慢さが、最も深い人格の否定という重大な問題を引き起こしていることを認識すべきである。人は、事実上、完全な義を達成することは出来ないのである。

人はなぜ義を求めるのか
 このように、達成不可能な義を、なぜ、飢え渇くように求めるのか。それは、生きていきたいからである。現実に様々な差別を受け、生きるのに苦しいからである。求めざるを得ないからである。それは、義の部分的な回復ではなく、人格全体の回復を求めざるを得ないからである。
 従って、この求めは、神に対する訴えに変わる。マタイが、飢え渇きに「義」を加えたのは、この問題を宗教的な、深い意味を認識させようとし、人間の必死の求めは、神が与えて下さらなければ達成できないものであることを言いたかったからである。
 イスラエルの民が、神が義であられることを確信した時、それは同時に、イスラエルの民の現実の中で、義を実現して下さることをも確信したのであった。神は、義であられるだけではなく、イスラエルの民の中で義を成就して下さる神でもあったからである。
 神の義は、神ご自身が持っておられるものだというだけではなく、公平と正義の形で、現実に貫徹されなければならなかった。これが実現した時、神は、初めて実質的に義であられると理解される。すなわち、神の義は、人間の救いと密接に結びついたものだったのである。
 神は、創造主であり、この世の保持者であり、困難に際しては無から有を生み出す奇跡を行い給うお方であり、憐れみに富み給う方であり、恵みと救いの神だった。だから人は、人間にとって最大の問題としての公平と正義の社会的解決のために、神の義を求めざるを得ないのである。

なぜ幸いなのか
 「飢え渇いている」この人が、なぜ幸いなのか。義を完全に得て、完結してこそ幸いなのではないのか。反対に、義が全体として獲得出来なければ、人間が完全に正しくなれなければ、不幸なのか。
 人は皆、知っている。徳の高い人物だと自認して生きている人よりも、自分には欠けがあって、人の前に正当には出られはしないと思いながらも、あらゆる努力をして正しくなろうと欲し、全身全霊をあげて義を求める謙虚な人が、どんなに幸いかを。
 しかも彼は、このひたむきな努力の中で、神の憐れみに包まれる。人に好意と愛情を持って受け入れられている人の幸いは、言い表すべき言葉がない。どんな失策を犯しても、理解され、受け入れられ、一緒に重荷を負ってもらえる。心を開き、安心して生きることが出来る。特にこの方が、神であるとなれば、その喜びは言い尽くせない。
 食べるに事欠かず、完全だと思っている人は、義に飢え渇くことはない。そして、暖かい愛情に包まれて安心して暮らすこともない。貧しくはあるが、義をあこがれる者は、謙虚と豊かさに包まれる。神は、この願いを顧みて、日ならずして、主イエスの来られる時に、この願いを叶えて下さる。
だから、義に飢え渇いている人は幸いなのである。


  
 
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