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     マタイ5章5~5節 柔和な人の幸い

混沌
05柔和な人々は、幸いである。
 ここに「柔和な人々」とあるが、「柔和」は、英語では「ミーク」と言われ、筋の通っていない人、卑屈な人、気力の無い人に用いられ、人に追従する無気力な人間の姿を思い起こさせ、よい意味には使われていない。
 イエスが生きておられた時代は、ポリス国家アテナイの誇りは失墜し、新しく台頭した時代に適合しなくなり、紀元前二七年、オクタビアヌスが初代皇帝となって、帝政ローマ国家が成立したことも起因して、時代は大きく変わろうとしていた。
 かつて、世界の根底に確かさを求めたギリシャ哲学は、この新しい、不安な世界に対して、「中庸」の思想を提唱した。
 アリストテレスは、過激な怒りを表す「オルギローテス」と、行きすぎたおとなしさを表す「アオルゲーシア」との中間を意味する「プラオテース(柔和)」を強調した。
 時として人は、過激な怒りに取り憑かれた結果、過激な自己主張に陥り、自己の怒りに制御が効かなくなる時がある。この様な、「オルギローテス」の状態にあるときには、人は「怒るべきでない」とする。
 一方、不正が行われたり、正義が踏みにじられたりしているとき、静かな怒りをもって当たるべき時に、行き過ぎたおとなしさを示す「アオルゲーシア」の行動を取るべきではないとする。「怒るべきとき」というのは、自己制御の効いた怒りの場合である。
 従って、この「柔和」は、「怒るべき時に怒り、怒るべきでない時に怒らない」行動を意味することになる。アリストテレスは、怒りが多すぎることと少なすぎることの中間の姿勢を取るべきことを主張したのである。
 猛々しいばかりでは人に潤いはなく、優しさもまた不可欠である。前進する勇ましい人は、時には、歩みを止めて、安らぐことも必要で、「柔和」ということも持ち合わせていなければならない。
 「柔和」は、一般に、猛々しく、力ある人に比べて、優しく、温和しい人のことを意味すると受け取られ、積極的に行動する人に比べて、控えめな、余り力のない人のように捉えられるが、ここでのイエスは、「柔和」を、このような消極的理解ではなく、積極的な意味に用いている。
 人と人との間には、様々なトラブルがあり、その解決の過程で、余りにも過激な自己主張や怒りは、人の関係を根本的に壊してしまう。これを、適切に制御しなければ、人との関係を維持することは出来ない。
 自分中心の怒りは罪であるが、自我を滅した怒りは、この世の偉大な道徳の力である。
 人は生来、自己主張や、そこから発する怒りを心の内に秘めている。このために、隣人を傷つけ、いかに悩ませているかについて、どんなにか悲しみ悩んでいることだろうか。このような中で、「柔和」であることを心の底では慕っているのである。
 ここではむしろ、柔和であることは大きな意味を持っている。柔和であることが人として力なく、弱々しく見えても、自分の強さが人を傷つけることを思えば、人は、強くあるよりも柔和でありたいと願う。しかし、基本的に、柔和であることは、人には馴染まない。
 人は有史以来、世界や人生や存在の根拠を慕い求めてきたが、そこには混沌と空しさしか見いだしてはいない。

従順
 流動する時代や、人間が構成する社会を相手に、いかに戦いを挑もうとも、それを僅かでも変更したり、打ち砕いたりすることは出来ない巨大な力が働いていることを、誰も否定することは出来ない。それを神と名付け、哲学的絶対者と言い、科学的宇宙の力と説明しようとも、その力の存在を否定することは出来ない。
 先に言及した、ギリシャの倫理を示す重要な言葉の一つである「プラオテース(柔和)」の語源「プラウス」には、もう一つの意味がある。それは「飼い慣らされており、命令に従うように訓練され、飼い主の支配を受け入れて、手綱通りに動くことを学んだ動物」の姿勢を表している。
 触れると直ちに死をもたらすようなヌミノーゼ。この巨大な実在の下でいかに生きるかを考えなければ、人は平安を得られないという現実を認めることが、ここでは重要になる。
 この、プラウスの表す「柔和」は、イスラエルの伝統の中では、「卑しい、抑圧された奴隷状態」を示し、奴隷という言葉に相まって、人間、最低の処にいることを意味している。
 イスラエルは、外国の王の支配の中で、自分の主張を何一つ表に出す権利を持たず、いつも悲しみながら、その支配の中に居なければならなかった歴史的運命を担ってきた。
 のしかかる支配に動物や奴隷のように従わなければならない運命と悲嘆の中で、この巨大な力のもとでいかに生きるかを学んだ。

創造主
 この学びの中で、その歴史から学んだことは、神の啓示であり、この啓示に従うためには、人間の自己中心的な生き方を根本から捨てて、飼い慣らされた動物や奴隷のように、すべてを放棄した者の貧しさの中で、生きる生き方が不可欠だということであった。
 この巨大な力と和らいで生きることこそ重要であった。幸いなことに、イスラエルが出会ったこの巨大な力は、荒々しい妬みと策略によって、人間を運命の中に閉じ込める神々ではなく、「人間と世界の造り主、創造主」であり、父としての慈愛に満ちたお方であった。
 彼らの行動の根拠は、人間に対する配慮としての中庸ではなく、創造主なる神への従順であった。
 彼らは父の言葉に耳を傾け、その中に啓示の光である律法を見いだした。自己中心的な自我の制御は、神のご意志を受け入れて制御する以外に方法はないことを悟った。イスラエルの民は、自己を克服して、神の意志、すなわち「律法」に仕えることに徹しようとしたのであった。
 最早、彼らの服従は、神の命令への屈従の義務ではなく、慈愛の父への積極的な自己放棄に変わった。
 イスラエルの民が、その民族の歴史の長い過程を通して探り出したものは、柔和を友達とすることだったのではないだろうか。自己放棄という、人のなしえないことを、イスラエルの民はなし得たということが出来る。
幸い
 従って、「柔和な人々は、幸いである」という文は、「すべての本能、衝動、激情を抑制することの出来る人、激しい怒りを自制できる人は幸いである」と訳すことが出来る。
 敵対する者とではなく、慈愛に溢れた者と共にいることほど、安堵して生きる道はなく、幸いなことはない。
 柔和な人々の居るところは神の国である。神は愛の神であるから、神の国は愛に支配された国である。一方的な自我の噴出のない、互いに共に生きる交わりの世界がそこにはある。
 人は、神の国にあって、神に仕え、人と交わるときにのみ、完全な自由を見出し、神の御心を行う時にのみ平和と幸いを得ることができるのである。
その人たちは地を受け継ぐ。

罪の自覚
 ここでイエスは「柔和な人々は・・・・地を受け継ぐ」と言われているが、この出典となっているとされる詩編三七編一一節では「貧しい人は地を継ぎ」となっており、「柔和な人々」は詩編では「貧しい人々」だと言うことが分かる。
 貧しく、いつも虐げられて、卑しい身分にまで落ちた人々が、何も言えず、人間としての権利さえ主張出来なくて、他人に追従し、気力無く、筋の通った暮らしをせず、卑屈であり、優柔不断であるなどのように受け取られがちであるが、事実は、主なる神に対する激しい祈りの中にある人々であったことも汲み取らねばならない。
 イスラエルの民は、不運な歴史的運命を通して、この巨大な力との不和は、自らの我欲から出る罪の結果であり、自分の存在の内に潜む罪に対するよほどな悔いがなければ、巨大な力との柔和を友達にすることは出来ないことを自覚したのであった。

謙虚
 ギリシャ人は、「プラオテース(ミークネス・柔和)」という性質と、「ヒュプセーロkルディヤ(高慢)」という性質とを、常に対照させるという。
 プラオテースの中には、すべての誇りを取り去るまことの謙虚さがある。この謙虚さは、学問の第一歩で、自分の無知を知ることから始まる。既に知っていると思っている人に教えることは出来ない。謙虚さが無ければ愛もない。愛は、自分の無価値を感じるところに芽生えるという。
 自分は弱く、神が必要であることを自覚したとき、宗教心が生まれる。
 人間が本当の意味で人間となるのは、自分が被造物であり、神が創造主であって、神無しには何事も出来ないことを知るときである。
 プラオテースは、学ぶ必要があること、ゆるされる必要があることを自覚する謙虚さを意味する。これが、人間が神に対して取り得る唯一の態度である。
 従って、「自分の無知と弱さと欠乏を知っている謙虚な人は幸いである」と訳すことが出来る。

自己放棄
 イスラエルは最早、猛々しく生きる道を、根底から捨てようとした。自分に対しては神の意志に完全に従順であることを強い、隣人に対して怒りや傲慢な思いを抱かない状態を保とうと努めた。
 一方、隣人に対しては、自らの悲しみの経験に照らして優しく、愛情豊に接するという倫理観を身につけた。
 この意味で、彼らが「柔和」と言う時、それは同時に、「謙遜」とほとんど同じことを意味していた。
 民数記一二章三節は、「柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」とモーセのことを評しており、箴言一六章三節は、怒りは常に抑制されていて、必要なときだけ怒ることが出来るとしている。モーセは、王の家に育ったが、同族のイスラエル人が虐待されるのを見て、虐待しているエジプト人を殺害した。隣人に対する、特に同族に対する虐待に対して、深い憐れみと怒りを覚えたからである。
 モーセは殺害後、殺人者としてミデアンの地に逃れる。王の系譜の中に入れられていたモーセであるから、エジプト人の虐待の事実を取り上げて、訴えるならば、殺人者の汚名と逆境とを被らずに生きていけたはずであるが、彼は争うことをせず、逃走した。神のご意志に従うこと以外、自分の権利と正当性を主張する道を知らなかったからではないだろうか。
 現代において、モーセが行ったこの方法が通用するかどうかは別のこととして、モーセに現れた柔和は、優柔不断な性格ではなく、自らを限りなく謙虚にすることと、隣人の不幸に対する同情と激しい怒りに燃ゆる性格を内に秘めたものであったことは理解出来る。
 深い悲しみや苦悩を乗り越えて生まれた「柔和」は、自分に加えられた侮辱や損害に対しては、決して怒らず、恨むこともないが、他人が傷つけられた時には激しい怒りを燃やさざるをえない性格を持つものであることが分かる。
 この意味で、自分中心の怒りは罪であるが、自我を滅した怒りは、この世の偉大な道徳の力と言ってもよいのである。

苦難のメシア
 しかし、なんと難しいことだろうか。人間は皆、自分自身の怒りを怒り、他人の不幸に対しては、何とか行き過ぎ、見過ごし、怒りなど表さない。この意味で、人は、怒るべきでない時に怒り、怒らなければならない時に怒らないのである。人間は、避けようのなくそうするのである。
 人が、このような罪に悩む時、何よりも、あのメシアの姿を思い出す。ゼカリヤ書九章九節は、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばにのってくる。雌ロバの子であるロバに乗って」と預言する。これこそが、柔和な王の姿である。
 訓練された動物が手綱通りに命令に従うように、他の人の支配を受け入れることは、ひとにはとてもできない。人間の根底を支配している本能、衝動、そして激情を抑制することの出来る人は、一人も居ない。ただ、このメシアだけが、そして、主イエス・キリストに実現された柔和さだけが、人間の目標を示している。イエスこそが柔和で、へりくだった者であり、待望された柔和な救い主にほかならないことが分かる。
 従って、柔和であることは、人間の性格や努力に依存しているのではなく、イエス・キリストとの関係において、人間はこれに初めて与ることが出来る。水の上で水桶に浮かぶ木片の助けで水こぼれを防ぐように、たとえ人間が柔和になれず、心ならずも罪を犯し続けるようであっても、主イエスに与って、そことの関係にある限り、主イエスの内に溢れている柔和のすべてに与ることが出来、その限りで人は、柔和を賜物として実現していることになることが分かる。

地を受け継ぐ
 誇りや権力によって人は大地の主となり得ない。神は高ぶる者に立ち向かわれるゆえに、「人の得るところのものは、散らすところとなる」とある。
 人に、謙虚さが無ければ、深い悲しみと罪の悔い改めを超えた愛も生まれない。愛は、自分の無価値を感じるところに芽生え、悲しみを抱えた謙虚さを糧に育つからである。・自分の無知と弱さと欠乏を知っている謙虚な人だけが、柔和なメシアと共に生きることが出来る。
 この世界を神の意志にそって維持し、支え得るのは、力ある者ではなく、「柔和な人々」だとイエスは言われる。イエスは、喜んで身をかがめ、無欲で自分の利益を捨てる者に約束を与えられ、柔和という静かな犠牲に対し、喜びをおぼえ、勇気を与えられる。

柔和は信仰の根拠
 神と人との前に静かに身をかがめる者に勝利が確保されることが、地上でも明らかにされる。
 イエスは地上を軽視されない。それは、神の支配が掲示される場所であるからである。
 柔和は、すべての誇りを人間の中から取り去るまことの謙虚さを意味する。人は、この謙虚さをもって、多くのことを学び、柔和な救い主に与って、自らの無知をいよいよ知ることが出来るようになる。
 この柔和こそ「地を受け継ぐ」と、イエスは言われる。
 自制力の強い人、すなわち、激情、本能、衝動をおさえることができる人は偉大であるということは、歴史が示すところである。
 誰でも、自分自身を従わせることが出来なければ、他の人に仕えることは出来ない。神の支配に全く身をゆだねた人こそ、柔和という性質を身につけ、この柔和こそ地を継ぐものなのである。
 マタイの著者は、三節では「天の国」を語り、五節では、その別形として、「地を受け継ぐ」と語る。あのメシア、主イエス・キリストに与る者は、天の国を頂くと共に、この地を嗣ぐ者になれると語り。ここで王となる者は、力のある者ではなく、「柔和な人々」であると語っている。
 マタイの著者が、「柔和な人々は、幸いである」と言うのは、貧しくあり、また悲しんでいても、主イエス・キリストの慰めを受けることによって、限りない祝福を受けることが出来るということである。この慰めに満ちた主イエスと歩くことが、どんなに幸せなことか。無価値で、ひとりぼっちで、悲しみだけしかないようなわたしたちであっても、主イエス・キリストが共にいて下さるならば、神の支配の内にあり、神のものである。これ以上の幸いはない。


  
 
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