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     マタイ5章4~4節 悲しむ人々の幸い

負の遺産の拒否
04悲しむ人々は、幸いである
 この聖句は、従来、逆説性があると指摘されてきた。それは、悲しむことは消極的な状況であって、幸いとは反対のものであるから、この言葉を理解するためには、「悲しむ」ということの中から消極的な意味を取り去って、積極的な意味づけをしなければ、幸いという積極的な状況にスムーズに繋がらないからである。
しかし、「悲しむ」という状況は、人間にとって消極的なものではあるが、この消極性を「悲しむ」という状況から取り去って、その内容をゆがめることは、必ずしも正しくはない。悲しいことは、あくまでも悲しく、消極的なものはあくまでも消極的なものとして受け取るべきである。
 今日の時代は、この消極的な「悲しみ」を嫌って、伝統から正(プラス)の遺産は積極的に引き継ぎはしたが、負(マイナス)の遺産を引き継ぐことを拒否してき。悲しまないで楽しむこと、苦しまずに自分に利益をもたらすこと、人に蔑まれずに、尊敬されること、このことを求めるに急で、苦しんだり悲しんだりするという負の遺産から、現実的に逃走してきた。

負の遺産の拒否の結果
 この逃走の結果、人は皆、苦しむことや悲しむことから疎遠になり、そのような状況が起こる可能性が見いだされる時、極度の恐れさえ感じるようになった。この恐れは、人と人との間に格差を生じさせ、関係を堅いものにしてしまっている。そしてこの堅さは、人間と人間の間に軋轢を生み、悲劇的な事件をさえ引き起こしている。互いに遺恨がある訳ではない。ただ、苦しみや恐れに対する不慣れから起こる恐怖があるだけである。
 しかし一方、人間の間の堅さを取り除く必要をも感じ始めている。時代は、人間の優しさを求め始めている。今日、多くの人々が「泣くために行ってきます」と言って出かけるという。行く先は映画館である。純情映画に浸水して涙を流しに行くわけである。「泣くために行ってきます」といい、映画館で涙を大いに流す。何か変に感じなくはないが、それは逆に、泣く場所を現実には見つけることが出来ないので、擬似的な方法をとらなければ人間性を回復出来ないという、とてつもない状況を抱えていることを示している。
 泣くという行為は、笑うという行為に比べると、積極的なものではない。それにもかかわらず、この行為を選び取るために出かけるのである。人はここで、擬似的な方法でではあるが、苦しみ、悲しみ、涙を流すことを求めていることになる。
このことから、苦しんだり悲しんだりすることは、人にとって、あるべきでない姿ではなく、生きるのに本質的で、無くてならないものであることが分かる。このことに不慣れになり、人間同士の堅い関係に疲れた人々は、悲しみと親しくなりたいと藻掻いていることが分かる。これが、負の遺産を引き継ぐことを拒否したことの結果である。

負の遺産の意味
 人は誰でも、困難や悲しみを経験しないで育つことは出来ない。苦しみを抱え込み、悲しみを蓄えて、人は成長する。そして、その悲しみを人生にどのように意味づけするかで、その人の、人となりが決定する。成功や名声だけある人生は表皮的なものでしかない。深い悲しみの経験が、その人生を豊かにすることを、人は皆知っていえう。
 人が悲しみを覚える時、そこには確かに無力な自分自身がある。しかし悲しみは、自分自身の失敗や無力から単純に来るものではない。その背後から、正義と公平に対する欲求が支えている。正義と公平の意識のないところには、悲しみの感情は生まれない。正義と公平が貫けない。そこに真の悲しみの姿がある。そしてこの、正義と公平の感情は、神を思う信仰に支えられている。

悲しみが愛に変わる時
 この意味で、悲しみは、単に自分の無力を嘆き、自分の不幸を悲しむことには終わらない。正義と公平は、自分についてだけではなく、すべての人に適用されねばならないからである。正義と公平を願う時、人と神の情けを知ると共に、他人に対する同情を学ぶことになる。他人の現実の中に正義と公平が行われることを願う心が与えられる。
 この時は、悲しみが愛に変わる瞬間である。人は、悲しみを知ることによって、人を愛するようになる。悲しみを知ることによって、人間の関係から堅さがとれて、柔らかな気風がその間を通うようになる。愛は、自らの利害のために他人を引き下ろす行為ではなく、自己を犠牲にして隣人に利益を与え、隣人を高めるための行為だからである。
 この意味で、愛は、自己を犠牲にする行為であり、負の遺産である。この負の遺産によって、人間は真実に生きることが出来る。隣人に対する犠牲的愛を貫けない者の人格は、決して崇高であるとは言えない。負の遺産である愛に生きることによって、人は高潔に生きることが出来る。
 聖書は、このことの意味を、ダビデの罪の意識を通して、明確に示している。彼は、王の権威に慢心して犯した姦淫の罪に対する悔い改めを、生涯の友とし、自分の罪と無価値さを基底に、愛に生きたのである。彼の著作とされる詩編のいずこを見ても、悔い改めを切り抜けない場所はないと言っても過言ではない。この悔い改めと愛の故に、彼は偉大な王と言われるのである。自分に真の意味で絶望するところに、悲しみが生まれることを知らなければならない。

すべてを超える愛
 ただ、この愛は、悔い改めや、隣人への同情に留まるものではないことも認識しなければならない。聖書の中に、このこともまた見ることが出来る。
 イスラエルがペリシテとの闘いに巻き込まれた時、ダビデは戦勝して凱旋したが、サウルとヨナタンは戦死した。ダビデはこの二人を悼んで、「弓」と題する詩を詠ったが、その中で、「わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、女の愛にもまさっていた。ああ、勇士らは倒れた。闘いの器は失われた(Ⅱサム1: 26-27)」と詠っている。
 ここで遣われている「悲しみ」という言葉は、死んだ人を悼み、愛する者を慕って狂うばかり嘆く場合に用いられる強い悲しみを表す言葉である。ダビデは、恋人の愛を凌ぐヨナタンの愛を思い、彼の死を激しく悼んでいる。また、「ああ、勇士らは倒れた。闘いの器は失われた」と詠って、サウルの死をことのほか悼んでいる。
 思えばサウルは、ダビデにとって、単純に悼むことの出来ない王であった。サウルがダビデをいかに虐待し、死に瀕するまでに追い詰めたことを思うと、傷むどころか喜んでもくゆるところはないと思われるが、彼は、「弓」と題される詩の中で、「ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ、お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな。勇士らの盾がそこに見捨てられ、サウルの盾が油も塗られずに見捨てられている」と詠って、神が油塗られた者であるという故に、人間的な恩讐を超えて悼んでいる。深い悲しみを超えた、神への信頼の故の敵への愛が如実に表れた姿を示している。
 愛は、すべてを乗り越えて、神の意志へ従うことへと人を導く。悔い改めも、犠牲的愛も、神の意志へと収斂し、人を神の僕へと変えていく。

慰め
 「僕」、すなわち奴隷は、負の遺産の局地である。ここは、人ではなく、「もの」となる局地である。これは、悲しむ人々が、徹底して「へりくだる姿(イザヤ6:12)」を示している。負の遺産を引き継ぎ、自分は何者でもないことを承認するまでは、「へりくだる」ことは出来ない。本当に悲しんでいる人は、人と神の前にへりくだることが出来る。
 負の遺産を引き継いだ人々の中で、忘れてならないお方は、「主イエス・キリスト」である。十字架は、負の遺産の最も深い局地である。この十字架の主を仰ぐ時、人間の罪を赦し、これをいとおしんでやまない神の眼差しに気付き、自らの罪の深さと、犠牲的愛のなさに、涙しない者は居ない。ここに深い慰めがある。
負の遺産が、正の遺産に変質するのではない。負の遺産が、負の遺産のまま神の憐れみを受け、そこで生まれる慰めが人と人との間を潤すのである。マタイの著者が、「その人たちは慰められる」と言っている所以である。

本当の幸い
 聖書に、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」と主イエスが言われたとある。負の遺産を嫌い、主イエスの十字架の死を悼むことを忘れ、この、愛する者を失ったことへの強い悲しみを覚えない者は、神の慰めを見つけることは出来ない。この悲しみを覚え、ひたすら十字架の主を思い続ける者には、暖かい神の慰めがあり、あの花婿が、もう一度、天の雲に乗って再臨なさるという希望をも与えられている。これこそ、本当の幸いではなかろうか。


  
 
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