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     マタイ5章1~3節 貧しさに秘められた幸い

聖なる山へ
01イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄つて来た。
 ここでイエスは山に登られた。この「山」の山名を特定する必要はない。「山」は、旧約聖書においては、一貫して聖なる者が語る場所として、象徴的な意味を持っている用語である。
 それは、出エジプトでは十戒の付与された場所であり、マタイ四章八節では悪魔との対決の場所であり、一七章一節では受難予告の場所であり、二八章一六節では宣教命令の場所であり、神の啓示との関係がはっきりと現れている。
 従って、この山の上でのイエスの説教は、神的な権威に基づく教えであることを明晰にする。
 この権威は、他の箇所では、「しかしわたしは言っておく」という導入句のもと、十戒に反対の意見すらもたらされる力を持っている。

終末の到来
02そこで、イエスは口を開き、教えられた
 神的な権威のもとに、後に「山上の説教」と銘打たれることとなった5章から7章の説教がここから始まっている。
03心の貧しい人は、幸いである。
 その第一声が「心の貧しい人は、幸いである」という言葉であった。
 「心の貧しい人々」という言い方は、ルカの「貧しい人々」に「心の」が付加された言い方になっている。
 「心の」という言葉があるのは、経済に基づくこの世的でない、今までとは違う、全く新しい貧しさを示そうとするからそう言われているのである。
 これは、ルカが端的に経済的困窮者を指すのに対し、精神的な意味を深めた表現であり、自らの内に救いの可能性を全く認めない人々、神にのみより頼まざるをえないことに気づいている人々を指している。
 従って、この「心の」という語は、一つの時代が終わって、新しい時代が始まる「終末の時」の始まりが意図されているのである。
 この時イエスは、イザヤ書六一章一節を思い出しておられたに違いない。そこには「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」という、終末の時の始まりの宣言が記されている。

豊かである人の幸い・・・・価値に対する尊敬
 この世は、この世的な豊かさによって動いている。この世において豊かさが実際に何を生み出すかを皆よく知っているからである。カーテンウォールの高層ビルの建ち並ぶメインストリートを歩く時、人は皆輝かしい顔をして上を見上げる。贅を尽くした日本建築と庭園を見て皆驚嘆の吐息を漏らしながら尊敬を惜しまない。国家から賞として貰った勲章を着けた人々を賞賛のまなざしで見上げ、その偉業をたたえる。
 キリスト者すらもまた、大きな伽藍を見、贅を尽くした装飾がしてあれば、何と素晴らしいんだろうと思い、地位のある賢い教職を見れば尊敬の眼差しを上げ、金も人も多く集まっている所には信頼と憧れを捧げる。この世にあって大きいことはよいことで、何の損傷もなくこの世を謳歌してやまない。
 これが豊かであることの世的状況である。この世で満たされているところでは、満足があるのみで、いかなる求めも生まれない。
この世に富んで失うもの
 旧い価値基準に囚われていては、新しい未来は開けない。この世が富を得、豊かになる時、彼は満足する。すなわち自足するのである。人が自足する時、何が起こるかというと、人間の存在が動かなくなるということが起こる。すなわち、人間がその主体性を失うということである。
 人間が主体的であるということは、目的性と使命感をもって存在するということである。従って、主体性を失うということは、その存在の目的と使命を見失うことを意味している。
 人は満ち足りた時、豊かだと感じ、幸せだと思うかも知れない。しかし自分自身は主体性を失い、全く豊かさの奴隷にされてしまっている。
 このように何ものかに支配されている人格が本当に幸せであるかは、豊かさを感受している本人自身が、実際には疑問に感じているはずである。
 豊かな人は満ち足りて強く見えるかも知れない。しかしその時、人は存在の本質において内なるものを失っているのである。

心の貧しさ
 従ってイエスは、この世の幸せを甘受できる豊かさを持つ人は幸いだと言わないで、「心の貧しい人は、幸いである」と言われる。
 それは、その問い自体が、この世とその富の旧い理解に囚われているからである。
 イエスは、物に貧しく身体が病んでいる人々と共におられた。心の貧しさは、大抵の場合、物の貧しさと共にある。物に困窮し、生きるすべてに不安と焦燥のある時、人は心に願い、その願いを阻んでいる矛盾に気づき、心の貧しさの自覚へと導かれる。
 イエスが共におられたのは、彼らが物に貧しかったからではない。それとはまったく違った心の貧しさを持っていたからである。
 マタイはローマの官職にあったし、ルカは医者だったから、物に不自由はしていなかった。主イエスに祝福されたザアカイでさえもである。心の貧しさを持っているからこそ喜ばれたのである。
 このような人たちは、精神的に強い求めがあり、目的を持ち、使命を果たそうとしている存在であり、前に向かって前進していくあり方を取る。すなわち、自足的ではなく、常に欠けを負って生きていく存在のあり方を取る。ここに、存在論的な貧しさが生まれるのである。
 マタイによる福音書が言う心の貧しさは、この存在論的な貧しさなのである。すなわち、富の豊かさや貧しさではなく、これとは全く別の、全く新しい心の貧しさなのである。
 後ろのものを振り捨てて、前に向かって進まずにないられない心の貧しさのある所に、真に自己を実現していく主体の喜びがあるところに、人生の意義は感得出来る。

心の貧しい人の幸い
天の国はその人たちのものである。
 それ故イエスは「天の国はその人たちのものである」と言われ、天の国の到来を告げるのである。イエスは既に四章一七節で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣言された。そしてここの、五章三節以下で、その実態をお示しになっているのである。
 天の国とは、神の国である。神が支配し給う国のことである。そしてここは、心の貧しさを持つ人々が生きている所である。心が貧しい人というのは、真実に渇望している人のことである。真実に渇望する人とは、神を求め、神に向かって進む人のことである。神に向かって進むという形で神の支配の下にいる人のことである。
 この世は心では動かず、貧しさによっては動かない。それどころか、豊かであることによって解決出来ないことは殆どないと確信している。しかし完全な充足にはほど遠く、常に欲望にさいなまれて、不幸である。
 常に心に渇望を覚え、神を求めて進み、神の國を受け入れる人こそ、心の貧しい人であり、幸いな人と言えるのである。

天の国を持つ人々
 そういう中にあって、主イエスは弟子達に対して、弟子達である故に尊重され、多く用いられることには危険があり、彼らが主イエスに召された時の心の貧しさを持ち続けなくては、神の国を持つ者となって、人々を救いの喜びに入れる者とはなれない、ということを教えようとされた。
 主イエスに従う者は、この世の豊かさに惑わされず心の貧しさを持ち続け、この願いと祈りを実現するために、才能であれ金であれ役立てていく主体性を期待されているのである。
 このような人達こそ、永遠の命の喜びとしての神の国を彼らの手に持つ人々であることを、弟子たちに教えておられるのである。
 世の尊敬と信頼を得る大きいこと、豊かなことを、ただ単に否定することは出来ない。キリスト者といえども、この世に生きて、そこで信仰を全うしなければならない限り、世がこれほどに注視をする豊かなことを役立てて、福音の真理に人々を注視させることが出来るなら、どんなに真理そのものが人々の心に浸透する助けになることだろうかと、豊かさに迎合するならば、信仰と、それを告白する教会にとって、重大な危機を招くことになる。
 そうではなく、豊かでないというだけで強烈な影響を受け、赤貧を洗うような状況のなかで、無視され、蔑まれ、困難を抱えた教会に対して、心の貧しさと貧困がある故に、「天の国はその人たちのものである」と喜ぶ信仰で取り囲むならば、そして決して、豊かだから幸いなのだと、心に微塵も考える事がなければ、そこで苦闘している優秀な教師達の宣教は推進し、心の貧しい人たちの天の国は、この世にあって拡大していくだろうに。
 心の貧しい人達こそ、真実、神の国を持つ人達だということを、如何なる時にも決して忘れてはならないのである。


  
 
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