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     マタイ4章23~25節 大いなる幻

美しい絵画
23イエスはガリラヤ中を回って、
 ここに「イエスはガリラヤ中を回って」とあるが、これは、四人の弟子の選任の後、主イエスの実質的な活動が展開され、ヘロデ・アンティパスの領土であるガリラヤ中を回られたことが記録されており、4章1節に始まったガリラヤ伝道のまっただ中に主イエスが居られたことを示している。
 この節の「ガリラヤ中を回って」という句は、9章35節にも殆ど同じ言葉で、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と繰り返されているので、これは毎日のご様子であったことが分かる。
 そして、ここには、4章23節と9章35節の枠の中に、5-7章の「山上の説教」と8-9章の「治癒活動」が置かれ、イエスの毎日の暮らしとその活動が、一幅の油絵のように描かれているのである。

諸会堂で
諸会堂で教え、
 まずイエスは、諸会堂で教えられたとあるが、ここでの会堂はユダヤ教徒たちの会堂、シナゴクだということに注意すべきである。すなわちイエスの宣教は、対立する者たちの集まる一つ一つの会堂を巡り、その中で行われたのである。
 安息日には、ユダヤ人たちが共に聖書を読むために会堂に集まった。イエスは、そこで行われる礼拝の中で伝道を展開されている。これは、対立する敵の中にあっても、これを愛し、共にその責任を担いながら、これを救わんとする活動を、主イエスはなさったことを意味している。
 このイエスの姿勢は、ユダヤ教を拒否し、これと対立する形で、天の国の宣教を荒野で展開した洗礼者ヨハネの姿勢とは対照的であった。同じ基軸にある洗礼者ヨハネと主イエスではあるが、その活動の形と性質は異なっていたのである。
 困難があり、解決が不可能に思えれば、人は、場所を異にし、敵対する人と対立して活動を展開しようとする。ここには、人間の限界が現れおり、現実的にその責任を担うことを拒否し、自我を貫徹する姿勢があることが示されている。
 これに対し、主イエスの活動は、徹底的に相手と居を一つにして、決してその問題の現実を避けずに、責任を負い、愛を貫くことにおいてなしたもうたという特色がある。
 これは苦難の僕としてのメシアについての認識を持つイエスに相応しいことであり、神の子でなければ不可能な徹底した愛の姿が示されている。

教え、
 「諸会堂で教え」という言葉は、ユダヤ人会堂での礼拝の様式に拘わった言葉である。当時、ユダヤ人会堂では、聖書朗読の後、聖書解釈による説教が行われた。マタイがここで「教え」と書いているのは、この説教のことである。イエスは、会堂司の指示に従って、聖書解釈の要請を受け、説教をされたのである。
 その意図は恐らく、ユダヤ教徒とイエスとの間の聖書解釈の相違からの対立を解決しようとするところにあったと思われる。正しく聖書が解釈され、神の意志を受け取っているならば、対立は起こらないはずであるから、ユダヤ教に於ける聖書についての誤解をイエスとの間で解こうとする意図がうかがい知られる。イエスの宣教には、ユダヤ教による聖書に対する誤解があるという根本的な指摘が含まれていたのである。

内か外か
 イエスは、会堂で、このユダヤ教からの批判に対して教えられた。それは神の真理についての不可欠な要件であったであろう。
 イエスの教えは実に斬新であった。律法の研究によって編み出されるような、人間が本来持ち合わせており、人間の理解の及ぶような真理については、教える必要はなく、悟ることで到達できるとお考えになったに違いない。せいぜい、悟るための手引きを必要とするだけである。それは、その真理が、人間と世界の内に在るからである。
 神の真理は、人間と世界の中にはない。それは外にある。自分の内にはなく、外にある真理については、教えてもらわなければならない。外から来た方に、丁寧に、理を尽くして教えられて初めて、何が真理であるかを知ることが出来る。
 聖書は、神の言葉である。人間とこの世を超えた所に根拠を持つ言葉である。イエスは、この神の言葉、聖書について解釈したところを教えられたのである。
 聖書を、人間とこの世に根拠を置いたところで解釈するのか、それとも、神の言葉として、人間とこの世の外に根拠を置いて解釈するかが、ユダヤ教とイエスとの決定的な相違であった。

御国の福音
御国の福音を宣べ伝え、
 会堂におけるイエスの斬新な教えは、御国の福音の宣教であった。
 「御国」とは「神の支配」を意味している。それはもはや洗礼者ヨハネが宣言した「天の国」ではなかった。神の支配する国の到来であった。神の国は、確かに天の国ではあった。それは外から近づいてくるものだからである。しかしその天の国は、神の支配として今や到来した。
 天の国は近づいて来るのであるが、神の国は既にその支配として到来していた。イエスが歩くところ、そこには神の国、神の支配が実現していたのである。
 この点で、洗礼者ヨハネとイエスとは、殆ど同じ用語での宣言でありながら、その本質は根本的に異なっていた。
 「福音」は、「よい知らせ」を意味し、ここでは神の国の到来を意味している。それは希望として未来にあるだけではなく、イエスに触れることによって現実に到来しているよい知らせであった。イエスにおいて、見たり、触れたり、話したりすることの出来る神の国がそこに実在した。イエスの到来は、神の国の到来そのものであった。従って、イエスの宣教は、悔い改めの宣教ではなく、よい知らせの宣教であった。
 この敵対する現実のまっただ中に、それを解決して幸いをもたらす神の支配が到来する。この知らせを携えて、イエスは、対立する人々の、しかも、その人々がこぞって礼拝をしている会堂のただ中に立って活動をされたのである。
 人間は、御国の福音の宣言を聞き、その意味を教えられて、救いに入れられなければならない。丁寧に教えられ、独りよがりの誤った理解を訂正され、真実の神の御意思に触れて初めて救いに導かれる。
 誤った結論に達し、それを絶対と確信しているユダヤ人に対して、イエスは挑戦されたのである。
また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

民衆の癒し
 会堂における福音の宣教は、その福音を説教するだけに留まらず、同時に、イエスの活動の中で民衆にも及ぶ事柄であった。イエスにおいて実現されている神の国は、彼と関わる人々との交わりにおいても展開された。
 主イエスのこの活動は、画期的なものとなって帰結した。それは、「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」という帰結であった。
 これは、主イエスによる福音の宣教と、それについての教えは、癒しという「奇跡」に直結していたことを示す。そこにこそ、神の支配を見るのである。この世界の中で、悪魔の支配の下にあった民衆が、神の支配の中に移しかえられる画期的な瞬間であった。

シリア中に広がる評判
24そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。
 「シリア中に」とあるのは、ガリラヤを中心とするパレスチナの北方全域に広まったことを意味する。イエスとの関わりは、彼を見たり、触れたり、話したりした人々のみではなく、彼についての噂を聞いた人々との間にも広がり、神の国は急速に展開していったのである。神の国は、これと関わるすべての人を囲い込み、交わりを結んでいったのである。
 人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
連れて来た
 ここでの「連れてきた」という語は「ささげる」というのが原意である。従って、病人を連れて行くと言っても、今日のように総合病院に連れて行く如くではなく、神の前に捧げて、潔めを受けるために連れて行くのである。すなわち、連れてきたのは、神の支配の下に置くためである。
 人は、病が癒やされるという極めて表皮的なものに強い関心を持つ。そして奇跡を期待する。しかしマタイは、「連れてきたので・・・・いやされた」と、極めてあっさりと表現して、この出来事には特別な関心を示さないごとくである。
 神の力によっては奇跡も起こりえよう。しかしこの出来事は神の支配の下に置かれているから起こったのであって、問題は神の国に受け入れられているかどうかなのである。神の支配が実現するところ、そこには大いなる癒しの出来事が起こり、祝福が溢れるのである。このことは医学の発達した時代においても変わることはない。

全世界に及ぶ大いなる評判
25こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、
 ここで上げられている「ガリラヤ」は主イエスの活動拠点である。「デカポリス」は、ガリラヤ湖から流れ出るヨルダン川の東の地域で、紀元前六三年に十の町が自治・通商のために同盟した都市群である。「エルサレム」は、ユダヤ教の中心地、「ユダヤ」はパレスチナの南半分の地域、「ヨルダン川の向こう側」は、ヨルダン川と死海の東と南を指す地域である。
 従って、ここであげられている一連の地域の総体は、パレスチナ全域にわたった、当時、全部もしくは部分的にユダヤ人の所有であった土地のすべての地方を指していることが分かる。
 このことによってマタイは、主イエスの評判は、ガリラヤ周辺に留まらず、パレスチナ全域、ヨルダンの東部にまで広がったことを強調していることになる。
大勢の群衆が来てイエスに従った。

交わりの拡大
 この評判を聞いてやって来た大勢の群衆は、「イエスに従った」とある。
 「従った」というのは、「同行した」というのが原意である。従って、これらの大勢の群衆は、珍しいことをするイエスという男を、物見遊山に来たのではなく、同行し、生活を共にしたのである。
 イエスと共に生活する人々は、イエスがそうであるように、神のご意志に従って神の国に居るのである。来たるべき神の国は、イエスと共に、既に、大勢の群衆の交わりの中に実現していたのである。
 イエスに従う大勢の群衆は、今や教会という形で今日にも継承されている。イエスは、目の前にある律法だけを凝視するのではなく、「大きな幻」を抱いて、弟子たちを教えられたのであろう。


  
 
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