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     マタイ4章12~17節 異邦人のガリラヤ

イエス、ガリラヤへの退去
12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
 ヘロデ・アンティパスが弟の妻を自分の妻にした非道をヨハネが公然と指摘したことが原因で、ヨハネの逮捕事件が起こった。この事件は、弟子たちによって直ちにイエスに伝えられた。
 この時イエスは、サタンの誘惑をお受けになった背景がエルサレムの神殿の周辺となっていることから分かるように、エルサレムの神殿の周辺に居られたと推定される。
 そこでヨハネの逮捕事件を弟子たちから聞いたイエスは、この時おられたエルサレム神殿の周辺から、即ちユダヤから、ガリラヤへ移動された。ガリラヤの何処かと言えば、次節に「ナザレを離れ」とあるので、ガリラヤの「ナザレ」に身を退かれたことが分かる。

アンティパスの支配の下へ
 かつてイエスは、ヨハネがヨルダン川のほとりで民衆に天国の備えをしたのを聞いたとき、ナザレからヨルダンへと出発された。そして、今は、洗礼者の活動の終焉を聞いたとき、エルサレムのお近くから離れて、以前出発されたガリラヤのナザレへと戻られた。イエスは、御自分の働きを最も有効に進めることの出来たであろうユダヤの地から退かれたのである。
 イエスがナザレに退かれたのは、洗礼者を殺害したアンティパスの前から逃れたのではなかった。なぜなら、アンティパスは、イエスが戻られたナザレを含む、ガリラヤ地方のユダヤ人の村々とヨルダンから東の地方を支配しており、エルサレムにはなんの権力もなかったからである。従って、イエスは、アンティパスの支配のないエルサレムから、彼の権力下にあるガリラヤに「退いた」ことになるからである。
 イエスは、決して、ヘロデ・アンティパスを恐れてはいない。確かに、神は、洗礼者ヨハネを、領主ヘロデ・アンティパスの下に引き渡し、マケルスの城の牢に入れ給うたのであるが、洗礼者の運命は、アンティパスの無神的考えによるだけではなく、イスラエルの堕落にその罪の責任があったと認識しておられる。
 イスラエルの罪の故に、洗礼者の語る神の言葉が無益になったので、神は洗礼者を取り除かれたと、イエスは理解しているのである。
 ヨハネの逮捕という騒然とした世相の中で、神の国運動の先行きは、暗雲に包まれた。主イエスは、これに対して、力に対して力、邪悪の力に対して神の力をもって立ち向かうことも可能であったが、このような抗戦的な姿勢をお取りにならず、いつものように、人間の思惑ではなく、神の御心の所在を問うところに姿勢を向けられた。
 これらの一連の事実を並べて見ると、ここで「退かれた」とあるのは、ヘロデ王の嬰児虐殺の際に、ヨセフとマリアが嬰児イエスを伴ってエジプトへと退去した時のように、イエスはエルサレムを避けられたことがわかる。
 イエスは、難を逃れて退かれたのではなく、常に神の御旨を注視して行動されたのである。

新しい伝道拠点カファルナウム
13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
 主イエスは生まれ故郷、ガリラヤのナザレに落ち着かれ、神のみ旨を探りながら、両親や親類達との豊かな交わりの内に、しばしの時をお過ごしになった。そして、いよいよ主イエスは、神の国の宣教を開始された。そしてその拠点として、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムをお選びになった。
 それは、家族の住まうナザレには再びお帰りになることはなかった程に、強い意志に基づくものであった。そしてこのカファルナウムを御自分の町となさり、ここに「住まわれた」のであった。

ゼブルンとナフタリの地方
14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、
 イザヤ9章によると、「ゼブルンとナフタリの地方」という呼び名は、かつてイスラエルの十二部族がパレスチナの地を分割して定住し、宗教連合体を形成した時代の領土区分を反映し、イスラエルのエジプト帰還後、この地が、アセル、ナフタリ、ゼブルンの種族に与えられたことに始まる。「ナフタリ」はガリラヤ湖の西岸と西北部一帯、「ゼブルン」はナフタリより西の山間の地域である。
 これらの地域は、パレスチナの北端にあり、北はリタニ川から南はエスドラエロンの平野までの地域、西方は海沿いの地域を支配していたフェニキヤに接し、東はガリラヤ湖に達する。北東が80キロ、東西が40キロにすぎない狭い地方であるが、世界の「有名な道」が通っている場所にあった。ダマスコからガリラヤを通って、エジプトとアフリカへ続く「海の道」、ガリラヤを通って国境に達する「東方の道」、南方のユダヤ地方は隔離された片隅にあるという意味で「行き詰まりの道」などである。これらの道を通って外国と交流のある地域であった。
 イスラエルがエジプトから帰還したとき、そこには原住民が住んでおり、これを完全には追放できなかったため、種々の人種が住む地域となった。このため、これ以後、この地域は民族間の対立という困難な課題を担うことになった。
 また、この地域は、一度ならず北東のシリア軍の侵入を受け、前8世紀にはアッシリア軍に完全に占領され、指導者達が捕囚された後は、二世紀間に渉って外国人が定住し、支配することになった。
 ユダヤ人がネヘミヤとエズラの指揮の下に捕囚から帰った際には、異民族によって支配されたこの地に定住することを得ず、イスラエル人の多くは南に下ってエルサレムに住んだのである。
 当然、ユダヤ人にとって異邦人に汚されたこの地の奪還の努力がなされ、前164年、シモン・マカベウスがシリア軍をガリラヤ北部のシリアの領土に追放し、帰路についた際、ガリラヤに残っていた住民をエルサレムに連れ帰って、ユダヤ人の純化を図ったり、前104年、アリストブルスがガリラヤをユダヤ人のために奪回したとき、その住民に強制的に割礼を施し、無理矢理にユダヤ人にしてしまったり、前一世紀にユダヤのマカバイ王家の支配となった際には、割礼の強制や会堂の建設などの働きを通して、住民に対する再ユダヤ教化が積極的に推し進められたのであるが、所詮抵抗し得るものではなかった。

異邦人のガリラヤ
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
 前8世紀、アッシリアによってこの地域が異教化されたとき、イザヤは、この地域を「異邦人のガリラヤ」と呼んだ。
 元々「ガリラヤ」という語は、ヘブル語の「ガリル(環)」を意味し、西にはフェニキア人、北と東にはシリア人、南にはサマリヤ人が住み、非ユダヤ的勢力と思想に囲まれ、接触している状況を表している。
 パレスチナの南に位置するユダヤ地域は、東にも南にも砂漠で囲まれ、行き詰まりの地域で、外国の影響を比較的閉鎖することができたが、北のガリラヤは諸外国の影響を地勢的に閉鎖することが出来ず、その歴史は、その地理的条件を反映して外国兵の侵入を受け、征服され、異教化の波の中で多くの苦しみと困難の下に置かれた。
 しかしそれは、消極的な面だけではなかった。世界と結ぶ大動脈としての道路によって、この地域を囲む諸外国の新しい文化や思想が流入し、ヨセフスの述べるところに拠れば、パレスチナの住民の中で一番進歩的であり、常に革新を望み、変化を喜び、動乱を好み、短気で喧嘩早いことで有名ではあったけれども、勇敢な気質を持つ地域として形成され、この故、パレスチナの何処よりも新しい思想を受け入れる状態にあったとされている。
 初期教会時代には、進歩的な気質が発達し、ユダヤ教原理主義ともいうべき熱心党の根拠地となった程である。そして、北東が80キロ、東西が40キロにすぎないこの狭いガリラヤは、パレスチナ地方で一番地味が肥えていて、オリーブなどの農産物が豊富で、204の村に15000人もの人口があったとヨセフスが言っているように、人口が非常に多かったのである。

異邦の地に光が
16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。
 このように、混乱してはいたが進歩的であったこの異邦の地ガリラヤは、イザヤによると暗闇にある地であり、また死の影の地であると言われてるが、この困難を極めたこの異邦の地に、「光」が差し込み、民はその光を見ることになると言う。
 「光」は、当時のラビ文学においては「メシヤ」を意味したから、暗闇と死の陰から解放し、自由を与えるメシアが到来することを意味していた。

イエスの居住の地カファルナウム
 イエスは、この異邦人の地ガリラヤに居を据えられた。
 もっとも、この町は、ガリラヤ湖の北端の西側にある「テル・フーム」とされる。そこから南西4キロの「カーン・ミンヤ」との説もあるが、今は廃墟となって何も残っていない。
 「カファルナウム」は、「ナホムの家」という意味で、紀元5世紀になって「カペナウム」という名前で一般に呼ばれるようになった。
 従って、イエスがお住みになったガリラヤ湖北岸にあるカファルナウムは、異邦人のガリラヤとは必ずしも一致しないが、ペカの時代にアッシリア軍の侵入によって荒らされていたガリラヤを含む北部パレスチナの背景を持つイザヤの預言を、マタイが、この異邦人のガリラヤとイエスが住まわれたカファルナウムを重ねて、イエスがメシアであることを印象づけ、福音が異邦人に伝えられるという考え方(28:20)を印象づけるために、自由に引用したのであろうと想像される。
 ゲネサレ湖の北西岸に接し、豊富な水と豊かな実りのある小さなゲネサレ平野の北、ヨルダンの河口にあるユダヤ人町が、ユダヤの地の最果て、異邦の地に接する片隅であるという認識に誤りはない。
 パレスチナの歴史は、このカファルナウムにも新しい命と思想を与え、パレスチナの中で、新しい教えを説く新しい教師を受け入れるただ一つの場所となっていたのである。

悔い改めよ
17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
 こうして、ナフタリとゼブルンの国の北の果てに、神が暗黒に座する者に与える明るい光が輝くというイザヤの預言は、光であり、メシアであるイエスによって成就したのである。
 イエスは、故郷ナザレと決別し、断固とした決断をもって、この土地で伝道を開始し、教え始められた。イエスは、パレスチナの中で一番聴衆の多い地方を選んで伝道を開始されたことになるのである。
 「悔い改めよ」。イエスは、ヨハネが民衆にもたらしたと同じ言葉によって民衆に福音を宣べ伝え給うた。イエスは洗礼者ヨハネのイスラエルに対する悔い改めへの言葉を高く評価され、その説教の中にイスラエルの救いの道が明示されていることを認識しておられたのである。
 「天の国」。マルコでは「天の国」という文言はなく、すべて「神の国」であるが、ここではマタイは「神」という言葉を避けるため、「神」を「天の国」に言い換えている。悔い改めねばならない人間の罪を思うとき、平然と神の名を使用することにためらいがあったのかも知れない。
 「近づいた」。これは、「悔い改めよ、そうすれば天の国は近づいたのだから」であって、「悔い改めよ、そうすれば天の国は近づく」というユダヤ教の期待を意味するものではない。
 人間の悔い改めが天の国の到来を誘い、人間の行為に対応して、その報いとして天の国がやって来るのではなく、天の国は人間にとって危機的な状況を伴って、無条件に向こうからやってくるのである。
 ここでイエスが言われているのは、すぐにやってくる天の国を、悔い改めて受け入れることによって、救いに与ることができるということなのである。

イエスの宣教
 「宣べ伝え(ケールサイン)」という言語は、「主の宣言をつげ知らせる」の意味である。伝令者が「王の命令を直接に伝える」ことを意味する。
 イエスの言葉には、「おそらく」「多分」「あるいは」というようなものはなく、「確定的・議論の余地のない確かさ」があった。伝令者の声には「権威」がり、「王」の戒め、命令、決断を大声を上げて告げ広める勢いがある。
 従って、イエスの宣教は「命令」であった。イエスの「悔い改めよ」は、天の国の到来をつげる緊急な命令として響く。神の支配が始められようとしている。永遠が時間に突入して来る。神が、イエス・キリストにおいて地に降り立った故に、人が、正しい道と正しい方向を選ぶことが緊急の課題となったと、イエスは言われる。
 今や人は、自分の道を離れて神に帰り、地より目を転じて天を仰ぎ、方向を転換して神に向かって歩まなければならない。福音は、至上命令として、人間に提示される神の救いの言葉なのである


  
 
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