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     マタイ4章5~7節 主を試してはならない

イエスに対する悪魔の姿勢
05次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて
 悪魔は今、聖なる都へイエスを伴っていく。ユダヤ教の中心であり、神に対して犠牲が捧げられ、神の言葉が取り次がれ、教えが述べられ、宗教議論が交わされるエルサレムへイエスを伴っていく。
 これは、宗教議論をしようとする目的でイエスを伴う場所としては相応しい舞台であり、極めて妥当な判断であった。悪魔は決して恣意的に行動を起こしたのではなく、自分の目的のために最高の場所を選択したのであった。ここでならば、イエスとの本格的な議論が出来ると考えたのである。
 ここでの悪魔は、一人で立っているので、部下たちを統率する首領であり、マタイ一二章ではベルゼブルと呼ばれている。従って、ここでの悪魔は、強い力と権威を持った指導者としての資質を持っている存在だということが分かる。
 悪魔のかしらであるからこそ、イエスの偉大さが分かったのであろう。彼はイエスを、自分の相手として、宗教議論を仕掛ける価値のある人物として見ていたのである。
 このことから、ここでのイエスは、悪魔によって、犯罪人のように拘束されて連れて行かれたのでもなく、敵対者として嫌悪されつつ連れて行かれたのでもなく、ある意味で、尊敬を持ちつつ、客を迎える如く、エルサレムへと連れだって歩いて行ったのである。
 一人の権威ある王が、もう一人の王を招待する如くに、尊敬と敬意を持ってエルサレムへ伴ったという理解を心に留めたいのである。
 一人の権威ある悪魔という王が、「神の子」であるイエスという王に対して、決定的な信仰的挑戦を行うために、丁寧に、エルサレムへと連れて行ったのである。
 キリスト信仰は、無能な者の戯言ではない。それは、高潔な人格と人格の対話である。今日のキリスト者は、この高潔な人格を持つ対話者として、神と隣人の前に立つようになりたいものである。

神殿の屋根の端
 イエスに対する悪魔のこの姿勢は、彼が神殿の屋根の端に達したとき、頂点に達する。
 エルサレムの神殿は、シオンの山の頂上にある平坦な土地に建てられているが、その神殿にあるソロモンの廊と王室の廊が出会う所が「屋根の端」、また「宮の頂上」と言われる部分である。
 この屋根の端には見晴台が設置されていて、そこに立つと、エルサレムの市街はむろんのこと、はるか彼方の山々が一望のうちに見渡せる。
 目を足下に転ずれば、一四○メートルとも言われる断崖が眼下にあり、ケデロンの谷を見下ろすことが出来る。そこから目を上げると、向こうには主イエスが血の汗をしたたらせて祈られたゲッセマネの園があり、そこからオリブ山の頂がそそり立っているのが見える。
 祭司は、この見晴台に立って、ラッパの音と共に、朝の犠牲を献げた。民衆は、遙か上の方からのラッパの鳴り響く音を聞くと、犠牲を献げる祭司の厳かな姿を市街地から見上げることが出来、敬虔な祈りに導かれた。
 悪魔は、この重要な見晴台に、イエスを恭しく導いたのである。エルサレム神殿の城外から神殿の頂を見た民衆には、突然そこに、二人の王が、衣を風になびかせながら、立ち並んでいる姿が見えたであろう。
 敬虔なユダヤ人にとっては、マラキ三章一節に書かれている「あなたがたが求める所の王は、たちまちその宮に来る」という預言を思わせる情景に見えたかも知れない。事実、誰にも気づかれなかったが、そこには新しい王イエスが居られたのである。

イエスの信頼の不徹底を暴く試み
06言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある
 悪魔とイエスは、このような状況において、二人して対話をしたのである。
 悪魔の誘いは、「神の子が飛び降りたならば、神の守りが必ずある」ことを信じるかどうかである。イエスの神に対する信仰を試しているのである。
 悪魔は、この試みを、詩編九一編の聖書の言葉に基づいて行っている。当時、宗教議論は、聖書の言葉をもって行われたのであって、王としてのイエスとの議論には、妥当性のある議論の方法を採っていることが分かる。
 悪魔が基本とした旧約聖書には「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く」と書かれている。
 この聖句とマタイによる福音書の引用とを比較してみると、基本的な意図が歪曲されていることが分かる。
 この詩編にあるこの聖句の本来の意味は、主を信じる者にとって、神は避けどころであって、生活のあらゆる場面で助け手となって下さるという意味の詩編である。そしてその生活の背景は、イスラエルの荒野での暮らにあるのであって、荒々しい荒野の道を歩くとき、足が石に当たらないように、また、足下にいる毒蛇や野獣の危険に会わないように、天使を常に送って守ってくださるという意味の聖句である。
 従って、自らの意志で身を投げ、「飛び降る」という条件の下に、人を天使が支えるという意図で詠われた詩篇ではない。
 悪魔は、明らかに聖句を歪曲して、イエスを試みていることが分かる。聖書の言葉を使用して宗教議論を行うという方法は妥当だったが、イエスを試み、陥れようとする悪意から、聖書の言葉を歪曲してでも、イエスを窮地に立たせようとする意図は不正であった。
 悪魔は、よこしまに走り、旧約聖書の初めの意図を歪曲して攻撃の具として用いてでも、イエスの信仰の不徹底を引き出そうとしたのである。
 140メートルもある高みから、ケデロンの谷に向かって、自らの身体を投げ込むならば、死を見るのは必定。悪魔は、世にもない、恐ろしい要求を突きつけて、神に対するイエスの信頼がどのようなものであるかを試したのである。

神をイエスが自分の下に引き降ろそうとするかどうかの試み
 しかし、悪魔は、イエスの神に対する信頼を検証することに留まらなかった。もう一つの、更に深い検証を用意していたのである。
 恐れに満ちたこの世にあって、奇跡を起こすことが出来ることがわかれば、イエスの名声は広まり、人々を引き寄せることも容易に出来る。この世の王になるには、言葉による約束だけではなく、現実に力を見せる必要がある。人々を救うにはこれ以外にない。
 飛び降りるイエスを助けるという約束、天使たちを遣わしてその足を打ち付けないようにするという約束を、神が実行する、と悪魔は確信していたとも推測される。
 悪魔は、神が約束を守らない、イエスを助けない、などとは、決して考えていなかったであろう。人間を守るという約束、たとえその約束が歪曲されて理解されていても、神は必ず守るということも、悪魔は知っていた筈である。
 悪魔は、如何なることがあっても「人を守る」という神の意志を知っていたからこそ、「飛び降りたらどうか」という要求に、「神が助ける」というこの言葉を、ただちに続けたのである。
 しかし悪魔は、ここでも、この言葉を歪曲した。イエスが飛び降りたならば、神は、「飛び降りたイエスを天使に助けさせるという」行為を必ずなさる、という確信を、約束を信じてイエスが飛び降りたならば、神は、自らなした約束に従って、これを助けなくては「ならなくなる」という意味に推し進めてしまった。悪魔にとっては、この「ならなくなる」が重要だったのである。
 なぜなら、ここで神は、自らの発意によらず、イエスの意志選択の下に、自分がした約束の故に、「従わなくてはならなくなる」という状況が形成されるからである。
 悪魔は、この時、決して破られることのない神の約束を理由に、神をイエスの意志決定の下に引き下ろそうと考え、神がそうせざるを得なくなるような状況を、イエスに身を投げさせるということによって形成しようとしたのである。
 悪魔は、奇跡を起こすことによって、民衆の前にこの世の力を示し、その使命を達成するという行為へとイエスを誘い、その行為によって、神をイエスの下に従わ「なければならない」ようにし向けようと画策した。これこそ、神を信頼しているかどうかを検証することより以上に、「神を従わせよ」という、もっと悪質な、驚くべき誘惑によって、イエスの意志を検証したと言える。
 悪魔は、主への信頼を問う一方で、神への敵対という、さらなる悪しき結果を用意していたことになる。
 悪魔は、旧約聖書の中では「サタン」である。それは、通常理解されるような神の敵対者ではない。神の会議の天使の一人である。そしてそれは、ヨブ記の冒頭にある神の会議で明らかなように、その役割は、「訴えること」、「告げ口をすること」にある。テモテの手紙などでは「そしる者(Ⅱテモテ3:3、Ⅰテモテ3:11、テト2:3)」と訳されている。
 悪魔は、サタンとしての使命をかけて、イエスの信仰的姿勢の中に矛盾を造り出し、神の子としての不当性を神に報告し、訴えようとしたのである。

主を試してはならない
07イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた

 イエスは、神への不信頼と反逆への誘いに対して、宗教議論の定式を用いて、申命記6章16節からの引用で答えられた。
 そこには、「あなたたちがマサにいたときのように、あなたたちの神、主を試してはならない。あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい」と書いてある。イスラエルの民は、マサにいたとき、主を試みたのである。
 「マサにいたとき」、どのように主を試みたかについては、出エジプト記17章1-7節を読むとよく分かる。そこには、「主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、エフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、我々に飲み水を与えよというと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたがないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にもわたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ。わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。モーセは、イスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのだろうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。」とある。
 ここで言われていることは、イスラエルの民がシンの荒れ野にいたとき、飲み水がなく、渇きを覚え、死にそうになった。そしてイスラエルの民は、「主が共に居られるならば」このような悲惨に出会うはずはないと、モーセに不平を漏らし、モーセと争ったという史実である。
 ここで明らかなことは、渇きのために死にそうになったとき、「主は我々の間におられるのだろうか」という疑問が生まれ、モーセとの争いが起きた、ということである。
 このことから、「主を試す」ということの内容は、「主が我々の間におられるかどうか」を疑い、検証しようとすることだということが分かる。その検証の結果、モーセとの争いが起こったのである。主が共に居られるという確信が揺らぎ、その不安の中で主が伴って居られるかどうかを確かめようとしたのである
 従って、ここで試みられているのは、奇跡が起こるかどうかではなく、イスラエルと共に主が居られるかどうかについての試みであることが分かる。
 事実は、「主は彼らと共に居られた。」神は、モーセの救助要請に対して、ホレブの岩から水を湧き立たせ、イスラエルの民を救われたのである。モーセは、この場所に、マサ(試み)とメリバ(争い)と名付けたとある。
 主イエスは、このマサ(試み)をここで取り上げて、神に対する全き信頼を捧げているなら、その約束の実現の確証を取る必要は生まれない、と答えられたのである。
 イエスが、申命記を引用して、「あなたの神である主を試してはならない」と言われたとき、イエスは、悪魔に対して、確かめる必要もないほどに主の同伴を信じ、主が共に居給うことを、微塵も疑ってはいないことを表明され、主が約束されたことは、必ずその通りになると宣言されたのである。

主は避け所
 いかなることがあろうとも、主が助けて下さることは、たとえその助けが見えず、恐怖に駆られようとも、疑いのないことである。
 悲惨な現実を乗り切るために、主の約束を盾に人々の歓心を買ったり、人間の勝手な意志選択によって神を僕の立場に引き下ろしてはならない。
 大きな奇跡を行って人々の関心を引き寄せても、奇跡とそれをもたらす人間が褒めそやされ、歓迎されるだけで、神ご自身の影は消えていく。奇跡実行の効力が衰えれば、すべては水泡に消え、人々の間には失望と不安が戻るのみ。感情的興奮が過ぎ去れば、弱ってしまうような信仰は、やがて困難が来ると沈んでしまう。
 人には行うべきすべてのことが許されているが、神を自分の欲求の達成のために牛耳るのではなく、神が為せと命じられること以外のことは、人間はしてはならないということを主イエスは言われたことが分かる。
 神ご自身が、そのように為せと人間に命じられることを、いかなる不安があろうとも、主を試みずに為すことだけが、人間には求められているのである。主が伴い給うているかどうかは、主への信頼において現実を乗り越えた後で判明することで、前もって検証すべき事ではない。乗り越えた後では、必ず主が伴われていたことが分かるのである。
 主イエスは、この世にあって、十字架の死に至るまで神のみ旨に従い、些かも神が共におられることを疑うことはなかった。そして、その結果、復活の主となり、神が共におられたことを保証された。
 信仰者は、主イエスの神に対する信頼と信仰を見習い、たとえ困難と不安に囲まれようとも、主による使命に無条件に従って歩むべきことを、心に銘記すべきである。
 サタンは、この世にあるものすべてを、利用出来るまで利用する。そして、いやが上にもこの世で力を発揮しようとする。それは、「一つ一つ」、主を試しつつ生きる生き方に通じていく。
 しかしそこには愛もなく、信頼もなく、所詮この世界の事柄に過ぎない。
 人の幸せは、信じ、信頼することに始まる。そこには、利害のない愛の世界が広がるからである。
 この世のものに身を寄せず、これらがすべて取り去られるとき、主を避けどころとしている自分である時だけ、正義、誇り、溢れる喜びを、自分の心の中に発見するのである。
 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦、苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」と、詩編の著者が詠っている通りである。
 主の助けを信じ疑わず、なにものにも恐れず、勇気をもって、堂々と生きていきたいものである。


  
 
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