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     マタイ4章1~4節 この石をパンに変えてみよ

霊の導きとは何か
01さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた
 この物語は、本来、「イエスが荒野に導かれた」という言葉によって始まっている。
 大きな歴史の流れの中では霊についての認識は普遍的でさえあり、否定的な時代はほんの短期間でしかない。あたかも霊から遠いと言われている今日においても、将来に何らかの意味で霊の存在することに対する予感さえも、既に生まれてきていて、占いは流行り、カルト宗教は勃興し、宗教的活動はむしろ強烈に現れているというのが実情である。
 更に、神が問題になる信仰の世界では、神が遣わすある力について、霊と表現するしか表現の仕様のない動きが認識される。これを天使と言い、霊と言っている。特に聖書では、悪魔とあるこの存在はサタンと言って、本来は天使の仲間とされており、神のみ旨を表す一つの性格を背負わされた存在として認識されている。
 特に、すべての事が、神の許しと指示なしには、何事も起こらないという信仰をもっているキリスト教信仰にとっては、神の主権を支配を基礎づける根拠として、霊に対する信仰を抜きにはできない。神は、この霊において人と関わり、この世に関わるとされているのである。
 従って、主イエスの経験について、歴史的証拠がないという理由で、霊による誘惑を受けられたことが事実ではないとするのは、必ずしも当たらない。このような理由で、主イエスは霊に導かれて荒れ野に行かれたということは事実であったと信じるに足るとするのが妥当だということが分かる。
 この霊が、ここでは、イエスを「荒れ野」に導いたとされている。ここで使われている「導く」という言葉は、「上へ導く、導き上る」ことを意味する言葉である。すなわち、「霊的な世界、神が関係したもう世界」へ上って行くことを意味していることが分かる。
 荒涼としたこの場所は、神に直面するに相応しい場所として知られており、多くの宗教がこの荒野で勃興し、盛んな活動が為されたことが分かっている。ここで、主イエスもまた、神について考えておられたとするのは自然なことだということが分かる。
 このような霊の導きは、ここでは、「悪魔にから誘惑を受けるため」と目的が設定されている。神の霊は、無目的、恣意的には動かない。霊は、神のご意志を明確に伝達し、理解させるために動く。そこには、神の、深い知恵が働いていることが分かる。
 ここで、「悪魔」の存在が語られているが、「悪魔」と訳されている言葉は、ここでは、一般的に知られている様な「サタン」ではなく、「中傷をする者」という意味を持つ言葉が使われている。「無実の事を言って他人の名誉を傷つける者」という意味にとることも出来る。
 実際、悪魔が存在するかということについては、現代人は否定的である。しかし、他人を中傷誹謗してその名誉を傷つけ、引き下ろす人で満たされている今日において、その根底に、誹謗中傷を行う霊的な存在の支配を認めずには、この事態を理解することは困難だということも分かっている。
 従って、悪魔の存在が、霊的であれ、人間的であれ、その存在は、霊的な世界に上って、イエスと直面していることとなり、荒れ野はそのよい舞台でもあったことが分かる。イエスにとって、悪魔の誘惑は、それを遣わされた神との対話であり、人間の取り得る限界状況における信仰に関する試みとしてもあり得ることであった。

空腹の持つ意味
02そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 
この限界状況を、40日間の断食に具体化して表現する。40日という数は、飢えに関係させるとき、出エジプトの後、40年の間荒野をさまよったことを連想させるなど、イスラエルの様々な出来事に意味づけが出来るが、差しあたりここでは、大変長い間の断食で、尋常の者には生命さえも保ちがたい断食であったということになる。これはマタイが、その空腹の強さを強調していたと受け取ることが出来る。

空腹の中での誘惑
03すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ
 
空腹は、最も強い人間の限界状況を示す。古今東西を問わず、飢えの問題を解決することは、人間にとって最大の課題である。飢えという人間の限界状況において初めて、人間は何によって生きることが出来るかという課題に直面する。飢えを巡って悲惨な状況がどれだけ積み上げられ、また今日から将来にわたって一層多くの殺戮が積み重ねられていくことであろうか。
 この課題に対して、荒野に散らばっている小さい丸い石灰岩の小石、いかにもパンに似たこの小石がパンに変化するならば、それは人間の救いになることは必定と判断して、悪魔はここに切り込んできたのである。
 この問は、悪魔の誤った問いかけだからとして一笑するには、あまりにも大きく、根本的な問題だと言うことができる。これに対して真摯に答えを出せなければ、神の救いは現実にはならず、抽象化してしまうのである。
 空腹を解決するために小石をパンに変換するという作業は、悪魔の無謀な要求ではない。人間の歴史は、この小石をパンに変換することで人間の生命を維持し、暮らしを造ってきた。石炭、石油の利用によって果たした人間の業績は、小石をパンに変換することそのものであった。今や有機物質を操作することによって生命を操作する生命科学が、小石をパンに変化させる業績を誇っている。
 メシアとしての使命は、死に直面した人々を愛することである。飢えに瀕したこの人々を前にして、これを助けることが出来なければ、その使命は果たせない。これは、マタイ自身の深刻な現実の問題であると共に、彼を取り巻く諸教会に突きつけられた問題でもあった。また同時に、今日の教会に突きつけられている課題でもある。

イエスの応え・・・・根拠としての神の言葉
04イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。
 イエスは、この問に対して、「人はパンだけで生きるものではない」と言われた。
この言葉は、申命記8章3節の引用であるが、荒野で飢えたイスラエルの民が、神の言葉を信じて、そのマナで命をつないだことを思い出させる。そこでは、人は、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われている。
 人は、パンの問題を解決しなければ生きることは出来ない。しかし、主イエスは、パンの問題を解決するためには、神の口から出る言葉が必要だと言っておられる。この意味は、神の子は人間の要求(欲求)に直接的に応える存在ではないとか、人は神の力を自分の都合のために利用してはならないということを示そうとしたではなく、むしろ、神の口から出る言葉によってしか、真のパンは得られないということを示そうとしているのである。
 実際、人間は、石をパンに変えることには成功しましたが、その結果、地球には破壊が進み、気象の異変が頻発し、飢えと病が蔓延し、更に至る所に争いが勃発し、多くの人命すら失われている。これは、自然災害ではなく、人為的な災害で、防ごうとすれば防ぐことの出来る災害である。
 従ってここには、何か不可欠なものが失われている。それが、神の言葉の喪失なのである。
 人は、生きるためにはパンが必要であるが、「パンだけでは生きられない、神の言葉もなければ」というような、物質と神の言葉を並列に並べるテーブルは、ここにはない。むしろ、神の言葉がパンを造り出し、物質を創造する。神の言葉が、パンの問題とは別なものを表しているのではなく、神の言葉は真のパンを創造するのである。
 人間の持つ最も深刻で根本的なこの問題を、神の言葉が直接的に解決する。この解決が起こらない原因は、神の言葉の喪失によるということなのである。
 宣教の働きは容易ではない。マタイと原始教会の人々は、主イエスがいかなるお方であるかについて、世に対して明確に示さなければならなかった。彼らは、この主イエスを「神の子」として世に示した。そして、この「神の子」がいかなる働きをするかについて、歪曲することなく示す必要があった。
 この必要から、第一に、神の言葉に堅く足を置いて、その創造の業に関与するお方であることを示した。従って、このお方において初めて、この世の再創造の業が実現し、この方に依拠することによって、この世のすべての問題の解決が実現し、救いが成就するということを示したのである。

今日の教会の使命
 キリスト者は、いかなる時にも神の言葉によって立ち向かわなければならない。飢えという現実の問題に直面したとき、マタイと原始教会の人々が「神の言葉」に固着したように、人間的な同情や愛情からではなく、神の言葉から出発しなければならない。この出発点に、純粋に神の言葉を打ち据えることが信仰なのである。
 この拠点をまがい物にすることに代々の信徒たちは激しくて抵抗し、打ち勝ってきた。これが教会の歴史として、今日のキリスト者たちに遺産として残されている。
 今日の教会は、この貴重な遺産を大切に保持し、積極的に展開しなければならない。神の言葉なしには、何一つ解決しないこと、この神の言葉に何一つ不足はなく、これに何一つ付け加えることも、何一つ修正することもなく、神の言葉に依拠しなければならないことを確信しなければならない。
 神の言葉に依拠することは、あらゆる意味でこの世との対決を余儀なくされる。マタイがここで「神の子」について語っていることが、結局主の十字架で終わったように、教会もまた、この主に倣って、十字架に付くことになるのは必定である。この緊張と困難に打ち勝つ力を信仰において持っているかどうかが、教会の生命を決定する。この点に、「誘惑の本質」はあったのである。


  
 
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