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マタイ3章13~17節 洗礼を受けるイエス

洗礼を希望されるイエス
13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
 「イエスは・・・・ヨハネのところへ来られた」とある。ついに、ヨハネの活動の目的である神の国・イエスがその活動の中心に登場した。このイエスの行動によって、イエス御自身がヨハネを神の真実の預言者であることを言い表し、ヨハネの悔い改めの言葉と約束が神の御意志からのものであることを確証しておられることがわかる。イエスは、このヨハネのもとへ、「彼から洗礼を受けるために」来られたのである。
 ただ、イエスが、罪を犯してもいないのに悔い改めの洗礼を受ける必要があったかどうかについては異論のあるところで、マタイが初代教会にあったイエスの授洗の必要性に関する誤解を防ごうとして、マルコにある「の赦しを得させるため」という句を削除し、イエスが罪を持っていたとする見解を否定していることにも留意すべきである。

ヨハネの戸惑い
14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
 イエスの資質についての誤解を防ごうとする努力は、ヨハネの姿勢にも明確に現れている。
 ヨハネのバプテスマは、悔い改めへの招きであり、罪の赦しへの誘いであった。このバプテスマの授洗を依頼するイエスに対して、ヨハネは当惑したのである。イエスが、民衆の期待通りに王でありメシアであるならば、罪を自覚する人々のためのヨハネの洗礼は必要ないはずである。
 また、洗礼者ヨハネが主張しているように、斧と箕を手に持ち、聖霊によって聖き群れを造り給うお方であるならば、罪人との交わりの中にいるイエスの中に、誰もその姿を認めうるものはないのである。
 このようにヨハネは、イエスの授洗の必要を認めず、むしろ自分こそがイエス御自身が施すであろう洗礼を受ける身であることを告白し、イエスの授洗を「思いとどまらせようと」したのである。
 マタイはこのことを記述することによって、イエスの宣教への出発が、洗礼者ヨハネをさえも困惑させ、躓かせるほどの、驚くべきものであったことを印象づけているのである。

ヨハネの謙遜
 確かにヨハネは、民衆との交わりの中にいるイエスの姿について不可解な思いを抱いてはいたが、イエスの到来に直面して、イエスの存在が聖であり、ヨハネ自身とは本質的に相違するということを、紛れもない事実として認識していたことは間違いない。
 彼は確かに悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。しかしそれは、聖なるものとしてのイエスと同じ立場で人々の罪を指摘し裁いたのではなく、自らも民衆と同じ罪人として共に悔い改めへと向かったのである。
 ヨハネは、「わたしのところへ来られた」イエスの前に立って、自らとの相違を認め、自分自身の中に深い罪が存在することを見定めなかったならば、その説教の中で、水によるバプテスマと聖霊によるバプテスマの相違について語ることは出来なかったであろう。
 時代の潮流を転換させる主役となったヨハネが、イエスの前に身をかがめることが出来たのは、奇蹟に等しい。おびただしい群衆が押し寄せ、彼に悩みを訴え、悔い改めの告白をし、バプテスマを受けるこの潮流の中で、謙虚になれる者は殆どいない。そして皆、ファリサイ派の辿った道を歩いたのである。
 しかしヨハネは、この好況の中でも、自分とイエスの役割の相違を、神の救済の歴史の中で俯瞰していたのである。ヨハネの謙虚さは、神の御計画の認識を基礎としたものであったから、人間の思いに左右されることはなかったのである。

受洗へのイエスの決意
15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
 「今は、止めないでほしい」。ヨハネの授洗辞退に対してイエスがは言われる。ユダヤ人は、アブラハムの子として選民の一員であり、救いの中に既に入れられていて、受洗の必要はないと認識していた。ユダヤ人にとっては、受洗は罪に汚れた異邦人のために用意されたものに過ぎなかった。従って、有史以来一度もユダヤ人が受けたことのない洗礼委を受けるということは、ユダヤ人を罪の下に置き、改めて救いが必要な異邦人と同じ扱いに落とすことであった。イエスは、ユダヤ人にとって許しがたい大罪を犯そうとされたと言える。しかしイエスは、洗礼を受けることを止めるなと言われ、受洗への決意は固かったのである。

「正しいこと」の意味するところ
 ここで「正しいこと」とは、「神に喜ばれること」を意味する。
 受洗の決意に際してイエスが願われたことは、ファリサイ派のように、罪人と分離して自らの義を保持するのではなく、罪人と共にその重荷を担うことによって救いを求めることであった。イエスにとって「正しいこと」とは、「自分の民を罪から救うこと」、そして「その名はインマヌエルと呼ばれる」ことであった。ファリサイ派の生き方とは、全くその質を異にしたのである。
 そして、イエスにとって、インマヌエルとなる好機が今やって来ていた。時はヨハネの悔い改めの洗礼によって新しい潮流が起こっていた。有史以来初めて、悔い改めへの気運が、神を慕たい求める民衆運動として波打っていた。かつて無いほどの切実さで民衆は罪を自覚し、救いを求める機運は極まっていた。
 イエスは、三十年もの間、神の声がかかるのを待っておられた。悔い改めによって救いをもたらそうとする神の約束への信頼を、民衆と共に共有し、民衆と共に重荷を担う羊飼いとしての姿を表す時が来ていたのである。悔い改める者たちと交わりをもつというインマヌエルの使命の正しさを実践するときが来たのである。
 そして、この実践の重要な起点として神の意志に沿った「正しいこと」の中に、ヨハネの洗礼を、イエスは位置づけたのである。
 ここに「ヨハネはイエスの言われるとおりにした」とある。イエスのこの行動は、ユダヤ人にとってのみではなく、洗礼者ヨハネにとっても、理解を超える驚くべき事であったにも拘わらず、洗礼者ヨハネはこれに躓くことなく、イエスの求めに応じたのであった。洗礼者ヨハネは、イエスに洗礼を授けることによって、図らずも、悔い改め、従順にされた群れに、羊飼いイエスを与える奉仕者として、また救い主イエスの証人として、重要な役割を果たすことになったのである。
 イエスのこのインマヌエルは、失われた者たちの中で生涯貫かれ、死に際してさえも罪人の列に加えられるという形で実践されたのであった。

鳩と聖霊
16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
 「天が・・・・開いた」とある。一般に天が開くときは、天からくまなく栄光の輝きが現れ、守護天使が仕えるのが普通である。しかしマタイは、そのような現象には全く関心を示さない。 
 マタイは、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった」とだけ述べている。この句によって、神の霊がイエスの中に降って、イエスの存在そのものが霊的存在であり、神の賜物として存在することが証しされたことを示している。
 先にヨハネは、彼の後から来る方・イエスの特徴として聖霊と火を上げている。イエスの上に聖霊が降ったとき、このことが成就したのである。

イエスについての神の宣言の言葉
17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
 しかもこの事実は、神秘的あるいは秘義的なものとして、イエスの中に隠されるのではなく、天からの声によって見たり聞いたりすることの出来る神の言葉によって、事実として証しされている。
 ここで語られている「愛する子」という用語は、来たるべき偉大な王・メシヤを描いている詩編2篇からの引用であると言われている。
 従ってイエスは、神に選ばれ、救いをもたらすメシア・油注がれたキリストとしての権威を持つものとして、神の支持を得たことになる。
 更にここでは、「心に適う者」という用語も使われている。この用語は、「苦難の僕」を描いたイザヤ四二章からの引用であると言われる。従って、神の心に適うこと、即ち神が喜び給うことは、自らの民の苦難を共に担う苦難の僕の姿を生き抜くことであることが分かる。このことから、当初からイエスの前には、「十字架の道」が指示されていたことが分かる。
 救い主の権威を持ちながら、苦難の僕の姿で罪人と共に生き給うイエスの生涯は、ここでの、イエスについての神の宣言の中に明確に示されていたのである。
イエスの出発
 この洗礼によって、イエスは、「愛する子」また「心に適う者」として、神の認定を受けた。このことは、以後の生涯において、聖霊によって生まれ、聖霊がその中に住まうお方が、罪の重荷を負い、悔い改めた民の一員として、神の前に立たれることを決定づけられた、極めて希に見る出来事であった。
 マタイは、この出来事について、これ以上は語らない。彼にとって、洗礼者がどう理解したか、又イエスがどのような思いで第一歩を踏み出したかは重要ではない。彼にとって重要なことは、イエスが神の愛する子であり、聖霊において神と一体となり、その御旨を遂行し、神はこれを常に守り給うことが確信されれば十分であった。イエスに於ける神の啓示こそが、マタイの最大の関心事だったことが分かる。


  
 
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