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     マタイ3章7~12節 ヨハネに見る人生の価値

蝮の子ら
07ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
 洗礼者ヨハネがヨルダン川のほとりで洗礼を授けている所へ押し寄せてくる人々の中に、大勢のユダヤ教徒がいることにヨハネは気づき、これらの人々に向かって語らざるを得なかったのであろう。ヨハネは「蝮の子らよ」と烈しく語りかけている。
 選民であると自負していたユダヤ人、その中でも筆頭にあげられる宗教的指導者、ファリサイ派とサドカイ派の人々にとって、動物に、しかもこともあろうに蝮に譬えてられるなど、信じられない言葉であったであろう。
 しかしヨハネにとっては、彼らの姿は、砂漠の火事に遭遇して、火に追われる蛇やまむしが火事から免れようと、必死で右往左往している様子に見えたのである。ヨハネの活動によって新しく生まれた時代の潮流に、自己保身のために便乗しようとしているユダヤ教の指導者達のうろたえた様子は、正に蝮の子らと呼ぶに相応しかったのである。

悔い改めの実
08悔い改めにふさわしい実を結べ。
 神の怒りが下るとき、これを免れようとして火に追われる野にある動物のように逃げ惑っても、免れ得ない。
 ここに「悔い改め」とある。悔い改めは、神との関係を結ぶ基調であり、赦しと恵みを受ける唯一不可欠の条件である。生き方を根本的に転換し、自己に向かうのではなく、神に向かうのでなくしては、神の怒りを免れることは出来ない。
「実を結べ」という要求は、悔い改めの中に倫理的要求があり、ただ神の前に生け贄を献げ、許しを請うだけではなく、又ここでは、神の赦しのバプテスマを受けるだけではなく、悪を離れて神に帰り、その結果として行動が変化することを要求しているのである。
 脱穀畑に鎌が入れられるとき、隠れていた野ねずみやウサギや鳥が逃げ惑うように、やたらに走り回る行動は、救いに至る行動とは言えない。
 大火に見舞われたとき、難を逃れるためには、自分の直感や、自分が抱く恐怖に導かれてはならない。天候や風向きはどうか、ビル風はどちらに吹くか、低い建物の何処に煙が出ているかを、正確に、しかも瞬時に理解しなくてはならない。そして、その難を逃れ得る最も高い可能性のある場所に向かって突進しなければならない。時には、水に濡らした上着を頭にかぶり、火の中を突破しなければならないことさえあるのである。
 従って、この活路は、与えられた条件を「受け入れる」という生き方によって見出すことが出来る。自らの主義主張や見解に従うのではなく、与えられた客観的状況を受け入れることによって、活路を見出すことが出来るのである。
 「悔い改めにふさわしい実」というのは、自分の保身のために、自分の力で生きるのではなく、与えられた客観的な状況、いわば「外から」与えられた状況を受け入れて生きる生き方へと転換することを意味するのである。

アブラハムの功徳の無効
09『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

 ここでの、「父はアブラハムだ」という言葉は、「先祖達のすくいの功徳」によって人の罪は赦されるという信仰を基盤としている。特に、アブラハムの徳は、罪の赦しのためにいくら利用しても利用し尽くせないほど大きいと信じられていて、ユダヤ人が死に、ゲヘナの門にたどり着いても、そこから送り返されるほどだと言われている。ユダヤ人は、この強大な、先祖の功徳に与ることができる身分にあることを誇っていた。
 しかしヨハネは、この誇りは何の役にも立たないことを指摘しているのである。
 マタイは、アブラハムの子を、路上に転がっている石ころからでも、自由にお造りになれると言うことによって、ユダヤ人の誇りをみじんに打ち砕いている。過去に蓄積した功徳という遺産によって、現在の罪の償いをしようとしても、何の役にも立たないことを思い知らせているのである。

終末到来の緊迫性
10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

 過去の遺産によって現在を救おうとする誇りが、いかに過ちであり、罪であるかを知り、この生き方から方向を転換すべきことは、急を要している。
「斧は」という語は、終末の強烈な緊迫性を持ち、これまでの生活態度や価値観を続け得る余裕はもはやあり得ないことを表現する言葉として使用されている。
 実際、ぶどう園に生えている実のならないイチジクの木は、根本から斧で切り倒される。このように、人も又、過去の功績に頼る、誤った生き方から転換し、悔い改めて生き方を変えなければ、重大な危機に直面すると、マタイは警告するのである。

水の洗礼
11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。
 この、生き方の転換としての悔い改めに人々を導くために、ヨハネは「水による洗礼」を授けた。
 一般に、洗礼は、クムランでは閉鎖された同志集団内でのものであったのであるが、ヨハネは一般民衆に向かってその日常生活に対する悔い改めを求めたのである。
 このことによって、悔い改めを、個人的な自覚内に留めるのではなく、人々の前に公表される外的な行為によって、後に引けない宣言に変えたのである。
 特に、この公表される外的な洗礼の行使は、洗礼をユダヤ教改宗者のものとして認識していたユダヤ教徒にとっては、自らを異教徒並みに置くことを意味したのであって、ユダヤ教徒の特権的な宗教的地位に依存する自己理解への強い批判として響いたであろう。
 終末論的緊迫感を伴った、ヨハネの水による洗礼は、差し迫った危機に対する緊急、一回限りの洗礼として、強い印象を持って執り行われたのである。
後から来る方
 しかしその活動の中で、ヨハネは、「後から来る方」を見据えていた。彼は、終末のプログラムを実行するメシアが間もなく来ることを知っており、自分はそのための準備をする者であると考えた。
 ヨハネの服装と食物が、エリヤにちなむものであることから推測して、ヨハネの期待したメシヤ像はエリヤではないかとも推測されるが、必ずしも明らかではない。

靴のひも
わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。
 ヨハネと後から来る方との相違は、「その履物をお脱がせする値打ちもない」関係にある。「履物を脱がせる」即ち「靴を持つ」のは奴隷の仕事である。ヨハネと後から来る方とは、奴隷と主人との関係であり、奴隷の価値は後から来る方を指し示すことにしか価値がないのであある。
 名声が高まり、力が強くなったときにも、自己主張ではなく、自己忘却をすることは、簡単なことではない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

水と聖霊の相違
 これは、ヨハネとイエスの役割の正確な理解からしか生まれない。それは、「水によるバプテスマ」と「聖霊の火によるバプテスマ」の相違から来る。
「霊」は、ヘブライ語の「ルーアハ」を意味し、「霊と息」を指している。「息」は「命」を意味するから、神の霊は命を人の中に吹き込む息と理解される。無気力、倦怠感、敗北感は消えて、新しい命が躍動する源泉となる。
 それに加えて、「ルーアハ」は「風」をも意味し、その息の力は台風、強風として現れる。突風は舟を押し流し、木を根元から押し倒す「力」である。この風が吹くとき勝利が到来するのである。この意味で「ルーアハ」は神の「創造の業」と深く関係しているのであって、水と霊との相違は明確である。
 ヨハネによる水の洗礼は、霊によるいのちと救いを与えるものではなかったが、終わりの日到来の緊急事態に対して生き方を転換する悔い改めを要求する洗礼であった。ヨハネはこのことをはっきりと自覚していたのである。

水と火の相違
12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
 「火」は「脱穀場」の火である。箕でより分けられた籾殻を焼き払う火である。箕で選別された穀物は倉に保存され、籾殻は火で焼かれるのである。
 またこの「火」は、「消えることのない火」として拡大され、「終末の火」として理解されている。終わりの日には、この火が、救われる者と救われざる者とを選別するのである。
 そこで問われているのは、神に従うか背くかのいずれかである。救われるためには、生き方を変えて、「従う」道しかなく、この応答を逃れる道はない。
 それは、救われない者をゲヘナの火に落とすためではなく、「精錬の火」として人の心を純化するためである。
救済の時とイエスの接近
 神による救済の時は刻々と近づいていた。それはイエス到来によってもたらされ、そのイエスは、ヨハネが活動を展開しているヨルダン川のすぐ近くまで近づいておられた。
 こうして、ヨハネの活動とイエスのそれとは、救済史の枠の中で捉えられ、マタイは、救いをもたらす神の御業を明確に示しているのである。
 神に選ばれた偉大な人物は、神の摂理と救済の歴史の中で捉えられることによって、客観的な、また重大な厚みをもって捉えられ、雄大な救済史の中の欠くことの出来ない任務を果たすのである。


  
 
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