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マタイ3章1~6節 洗礼者ヨハネの教え

記述されない30年
01そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
 イエスが、ヘロデの手を逃れてエジプトへ行き、そこからナザレに帰還されてから30年の歳月については、マタイは何も記述しない。そして突然、洗礼者ヨハネを登場させる。
 誰にも知られない、人目に宣伝するような特徴もない、淡々とした暮らしの中で、神のご計画が着々と進み、今や時満ちて、メシアの突然の到来があることを示唆するように、30年の沈黙を破って、ヨハネの声を響かせるのである。
 
ヨハネの叫び
02「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
 
この声は、実に新しい時代の幕開けの言葉だった。
「現れて」というのは、何事かが現実化するということを意味している。ヨハネという男が人々の目の前に現れて、目を見張るような出来事が目の前に広がる。今や、それを人々は見ることになるのである。
 その声は荒野で響いた。何事か重大な出来事は、常に、荒れ野で起こる。人は、荒野に立たなければ、そこで起こっている斬新な事柄に気づくことも、目をくれることもなく、何事も起っていないかのように生きていく。
しかし、一度人が荒れ野に立つ時、神が、見紛うことのない御業を行われ、人を正されるのに気づく。それは、罪と混乱の中で人が死んでいるのを、神は見過ごしにお出来にならないからである。
 神は、常に人の世界に干渉して、これを導いておられることは事実であるが、人が荒廃しなくては、何事にも気づくことはない。神は、あたかも人が荒廃するのを待っておられるかのごとく、人が行き詰まった時を見計らって、み手を振るい給うのである。

悔い改め
 洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ」と述べ伝える。
 人が悪いことをしたことに気づいたら、そのことについて悔いて、償いをし、二度と同じ過ちを犯さないようにしなければならない。人は決してこれを軽んじてはならない。
 しかし人は、この悔い改めの過程で、驚くべきことを発見する。罪の自覚と、責任ある人格の形成の中で、人は、自己が否応なく破れ、滅びていくのを経験する。
 犯した罪は最早消えない。生きる中で隣人との間の深い淵は埋めることが出来ない。常に対立と抗争の中に生きなければならない。たとえそれが、日常の小さな出来事の中であってもである。
 なぜ人間は、このような汚れの中にあるのか、なぜ歯がみし合う中で生きねばならないのか、そしていつまでこの解決の可能性もないことのために闘わねばならないのか、しかもこの終のない努力の中で、どうして滅びを回避できないのかに悩み続ける。
 人が自分に負わされた汚れや責任を決して完了出来ない現実を承認するとき、自分がどのように罪深い者であるかを、否応なしに体験させられる。
 もし人が、自分の悪や過ちによってもたらされた結果について責任を負い、これを償おうとすることの中で、この体験を、同情や赦しの名の下で回避させてしまうならば、責任ある自己を形成することはできない。
 このジレンマの中で、人が人間の深い罪に気付き、滅びるしかないことを経験する時、「悔い改め」のもう一つの側面である「方向の転換」の意味を理解するようになる。
 この意味の悔い改めは、人間の自覚としての絶望と表裏をなしている。人間の存在についての絶望なしに、「方向転換」の意味の悔い改めには到達出来ない。
 これまでの生き方は、的はずれであり、一切が無だと体験したときはじめて、新しい生き方に向かうしか道のないことを受け入れることが出来る。

天の国が近づく
 ヨハネは、「天の国が近づいた」と言う。それは、とりもなおさず、終わりの時が来ていることを意味する。
 天の国が、向こうからやって来る。天の国は、人間の事情にかかわらず、神がよしとし給うた通りに、やって来る。それは外から来るからである。従ってもはや、以前の罪深い生き方を続ける余裕はない。
 しかし、天の国に入るためには、新しい生き方を初めなければならない。的はずれな生き方をしていたのでは、この国には入れない。
 悔い改めは、これまでの生き方を精算する新しい生き方である。それはある人には、たいていの場合そうなのであるが、恐ろしい裁きの日である。しかし、悔い改める人にとっては、救いの日なのである。
・洗礼者ヨハネは、この決定的な日が来る前に、人は、早急に、悔い改めなければならないと宣言した。

旧約の言葉
03これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』
 とはいえ、「天の国」は、突然、前触れもなく来るわけではない。神のなさる業は、人には突然に見えても、隠れた歴史に支えられているのである。
 いにしえより、荒野で叫ぶものの声が聞こえるということは聖書に記されてきた。それは、エリヤがもう一度来て、メシアの来臨を告げ知らせる時があるとの予言であり、イスラエルはこれを400年以上も信じ、希望してきた。そして今や、エリアと同じ装いをした洗礼者ヨハネが現れた。
 パレスチナは殆ど荒れ地で出来ていて、そこを通る道は、石を敷き詰めたり、土を固めたりしただけのもので、町中を離れると、歩くのも困難なほどの荒れた道が続いた。舗装された道と言えば、「王の道」しかなかった。王が来るという知らせによって、道は整備され、舗装が施されたからである。
 洗礼者ヨハネは、この王の道を「主の道」と理解した。メシアがやってくる。そこで、「主の道」を備えることを使命と自覚し、悔い改めのバプテスマを施したのである。
 
御旨にふさわしい装いで
04ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
 この装いは、神の奥義を知り、神にのみ根拠を置いた暮らしをしている人の装いであり、神の前でいかに生きるかに徹した人の装いである。
 野性的であれば神に相応しいということではない。人は、神のみ旨によって、それに相応しい装いが生まれてき、それに従って装いを整えるのである。ヨハネは荒野で声を上げたから、それにふさわしい装いをしたのである。
従ってその装いは、いつでもそれから離れて、み旨に適った装いへと変化する可能性を秘めていなければならない。神から与えられ、また神に返すことの出来る装いこそ美しいのである。
 洗礼者ヨハネは、30年の沈黙と祈りの時を破って、人々の前に躍り出た。確かにヨハネの出現は、時代を切り開く様に突然に現れた。しかし、神のご計画の外にあるものではなく、長い歴史と研鑽の時を越えて、現れた。

悔い改めのバプテスマ
05そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、06罪を告白し、ヨルタン川で彼から洗礼を受けた。
 こうして、ヨルダン川のほとりで行われた洗礼者ヨハネの宗教運動は、多くの人々の歓心を得た模様で、パレスチナ全土から、人々がヨルダン川を目指してやって来た。このことから、多くの人々が、いかに深く人間の罪に悩み、そこから生まれ出る避けようのない混乱を経験し、解決のない絶望の内に迷っていたかが分かる。
 この絶望の中で、人々は、神から遣わされた預言者のもとに来て、その罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けることによって、それまでの律法の順守を中心とした生き方を捨て、全く新しい生き方をしなければ、魂の救いを得ることは出来ないことを知ったのである。
 しかし、人間の本質から出てくる、律法を守れば救いが得られると考える生き方がいかに深い罪かという自覚の中で自己から離れ、悔い改めることなしには、人には救いはないことを悟るには、まだ遠かった。
大勢の人がヨルダン川で、バプテスマのヨハネから、悔い改めの洗礼を受けた。このことを通してヨハネは主の道を備えた。
 人々は、悔い改め、洗礼を受けることによってだけ、来るべき天の国に入れると信じ、メシアと共に主の道を歩くという望みに生きたのである。
そしてこの望みは、神の御業が動き、主イエスが現れた時、悔い改めることは極めて困難な作業ではあったが、天の国がこの地にもたらされることになっていくのを、まのあたりにすることになるのである。


  
 
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