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     マタイ2章16~18節 嘆き悲しむ者の声

だまされた
16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。
 東からやって来た占星術の学者達は、お生まれになったイエスについて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と言った。
 この言い方は、ユダヤの王であったヘロデにとって重大な問題として映った。
 ここで、「だまされた」とあるが、学者達が王の命令を聞かなかったということは、単に「だまされた」というよりも、むしろ「馬鹿にされた」と受け取るべきである。
 すなわち、この出来事によって、王としての力が異邦人にまでは届かないことが明らかになり、その結果、王の権威は失墜し、恥辱を受けたことになるからである。
 王にとって、自らが本来持っていなければならない権威と支配が揺らぐことほど、重大なことは他にない。それは、権威と支配のみが王の本質だからである。
 命令を聞かず、他の道を通って帰って行った占星術の学者達の行為は、王を恥辱の中に陥れたことが分かる。

自己保身
 従って、ヘロデは、「大いに怒った」とマタイは伝えている。ヘロデが、この恥辱に耐えられるわけはなく、受けた「恥辱」に対して「怒った」のである。
 特にヘロデは、諸王の中でも、王であることについての希にも極端な執着心を持っていた。
 彼が王座に着くと、これを守るために、サンヒドリンの議員達を殺し、更にその後三百人の議会関係の役人をも殺し、また、妻マリアムネとその母アレキサンドラ、長男アンレィパテルとアレキサンデル、アリストブロスを殺害するという究めて残酷な殺害によって、自己保身をし、また、自分が死ぬ瞬間にエルサレムの著名な人たちを殺すようにと、命令さえ出したと言われている。
 これらの彼の所業の中に、彼の性格が究めて顕著に現れている。
 このような残虐な性格を持つヘロデが、イエスという新しい王の誕生を冷静な態度で聞いていられるはずはなかったであろうことも分かる。彼の自己保身は、並外れていた。
 そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、

執拗な探索
 自己保身に明け暮れるヘロデが、まず行ったことは、イエス誕生の時期の確定だった。マタイは、「人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて」と書いている。
 「確かめておいた」というのは、「注意深く調べて、イエスの誕生の時と場所を突き止めた」ことを意味する。
 ヘロデは、「人を送り」、徹底的にイエス誕生の事実を突き止め、自己保身と王の権威と支配の回復のために、執拗・正確な調査を行ったことが伺える。
 「時期に基づいて」とあるのは、この調査の結果、時期が確定したことが分かる。

残虐な殺害
ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた
 ヘロデは、この調査に従って、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」と、マタイは伝えている。
 「二歳以下」とあるのは、イエスが誕生したと思われる日から起算して、イエスが成長して、その存在が人の目に隠しようもなくなるまでを計算した期間である。
 ヘロデのこの行為は、モーセの誕生を想起させる。当時、エジプトにあって、虐待されたにもかかわらず、その数を増し加えていくイスラエルについて、パロは出産の時に男であれば殺し、女であれば生かすようにと助産婦に命じ、人数の増加を抑えようとしたが、イスラエルの婦人たちは助産婦なしで赤子を生み、その数を増し加えた。その赤子の中にモーセがおり、隠しきれなくなった三ヶ月でナイル川の葦の茂みに置かれたのであった。
 それにつけても、ヘロデの、イエス誕生に対する対処は徹底していた。彼は、イエスがお生まれになった時期、占星術の学者たちが東の方から旅をしてきた時間、人を送って調査をさせるに要する時間、そしてイエスが大きくなって人目に付かざるを得なくなる期間などを、抜け目なく綿密に計算して得た時期を二年と計算した。
 そして、この計算に基づいて、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」のである。
 ヘロデは、モーセが隠されていた期間に比べて、これを大幅に拡大し、イエスの命を間違いなく絶とうとしたのである。また、「一人残らず」というのも、尋常ではない。ここには、ヘロデの異常な猜疑心と、残虐性とが余すところなく現れている。
 自分の身の安全を脅かすものは、徹底的に取り除き、微塵もその不安を残さないという帝王学の上に、ヘロデは君臨していたことが分かる。
 
小さな村の小さな出来事
 ただ、この出来事は、その残虐性を理由に、誇大視されてはならないことも事実である。
 ある学者によると、ベツレヘムは寒村で、この村にいた二才以下の子供達は、三十人ほどのものであって、イスラエル全土、至る所で、戦いが頻発し、頻繁に殺害が行われていた時代には、この程度の殺害は特別に耳を引くほどのものではなく、この理由から、ここでのヘロデの嬰児殺害の記事が新約聖書以外には記録がないことも伺える、と言う。
 従って、この物語のあまりにも痛ましい悲劇性の故に、主イエスの誕生の出来事のすべてを覆い隠すほどに、この事件を誇大視すると、この悲劇が、主イエスの誕生が原因で起ったごとくに認識され、神の恵みを大きく傷つけることにもなりかねないのである。
 耐えられないような悲惨な殺害ではあるが、「小さな村の小さな出来事」として、悲しみを乗り越えて客観的に見ることは究めて重要である。そして、この客観的な認識に立つからこそ、かえって、一つの命が理不尽にも絶たれることが、鮮烈な痛みを伴った、如何に罪多いことであるかを象徴的に理解させるのである
 事態を感情的・同情的にのみ受け取るのではなく、具体的に、虐殺されそうな一人の命を救うことに重大な責任を果たすことを心に留めることが肝要なのである。
 伝説ではあるが、四人目の博士アルタバンは、三人の博士たちとの待ち合わせに遅れたために、一人ナザレの村にやってきたという。既に幼な子イエスはヘロデの手を逃れてエジプトヘ旅立ち、博士たちも立ち去ったつた後だった。町には慌ただしいローマ兵の剣の音が響き、女たちの泣き声が聞こえていた。アルタバンは、「ローマ兵が赤ん坊を殺している」という叫びにわななく母親をかばって、戸口に立ち、「ここには誰もいない」と偽りを口にし、救い主に捧げるための三つのルビーをローマ兵に与えて、この母親と赤子を救ったという。心温まる話しである。

イスラエルの悲しみ
17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
18「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。

 ここでマタイは、この残虐な殺害を見据えることによって、そこに、ラマで聞こえる泣き叫ぶ声を聞いている。
 この泣き声はエレミヤ31章15節からの引用であるが、この箇所は、もちろん特にヘロデによる悲劇を直接預言したものではない。
 「ラマ」というのはエフライムの山地にある村で、ヨセフ部族はこの地方を分割されてここを支配し、北イスラエルの先祖となったという歴史がある。ここには、ヨセフの母ラケルの墓があると言われている。
 「ラケルは子供たちのことで泣き」というのは、この北イスラエルが、前721年、アッシリアによって滅亡し、おもだった指導者たちが捕囚としてアッシリアへ連れて行かれる途中、ラマを通った時、ラケルが、子孫の悲運について、墓の中で激しく泣いた、と伝えられている。この泣き声が、ラマで聞こえる「激しく嘆き悲しむ声」である。
 この言い伝えを引用したエレミヤは、今、南王国ユダの滅亡を目の前にして、ラマに集結されるユダの捕囚の民の中に居て、このエレミヤ書を書いたのであった。エレミヤの心の中に、今その中にいる捕囚の民の運命を思うとき、かつてこの地に響いたラケルの悲しみの声が、今も響いているのを聞いたのである。
 北イスラエルの滅亡はラケルの悲しみ、南王国ユダの滅亡はエレミヤの悲しみ。「子供たちがもういないから」、呼び返すにも呼び返せないから、もう慰めはいらない絶望のどん底にあったのである。

嘆き悲しむラマの声
 こうして今や、三度、イエスのエジプト避難と、ヘロデによる嬰児虐殺の悲運を思うとき、ベツレヘムの近くにあるというラマの村で、このラケルの嘆き悲しむ声が響いているのを、マタイは聞いているのである。
 この殺戮は、ここで、ユダ滅亡に際してのエレミヤの嘆きに通じる。イエスのエジプト避難は、この「ラケルの声」を背負っての避難であった。まさに、エレミヤの嘆きと同様な悲惨を担って、民と共にイエスはエジプトに退いて行かれたのであった。


  
 
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