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     マタイ1章22~25節 神、我らと共に歩み給う

イエス誕生の必然性
22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 ここでマタイは、イエスの誕生が恣意的に実現されたものではなかったことを証明しようとする。何事も、突然、恣意的には起こらない。そこには、創造このかた、神が意志し給うた目的があり、その目的達成を支え導き給う神の摂理がある。そこには、人が神を垣間見ることが出来る必然性がある。マタイはこのことを確信し、証しするのである。

イエスの誕生はイスラエルの悲願
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 この預言者の言葉は、イザヤからの引用である。
 「おとめ」は、「若い女性」という意味で、必ずしも処女を意味しないが、マタイはこの預言の言葉の中に、救いの出来事は神のみの御業であり、事実、何ものの力の介入をも許さない処女として、神の御旨をひたすらに受けたマリアの姿を見たのである。
 「おとめが身ごもった」という言葉を、理性的範疇の中にないということにのみ凝視するのではなく、神の純粋の働きの表現として見ることが肝要なのである。そこには、世界が認識することすら出来ない巨大な神の働きと、摂理が働いているのであり、この中に神の摂理の奥深さと、その摂理への従順を学ぶべきである
 マタイは、救い主としてのイエスの誕生は、全く神のみの働きだという信仰を、ここに見るのである。
 自分の民を罪から救うメシアの誕生は、イスラエルの悲願であり、イエスの誕生は、この悲願への答えとして、予定されていた。
 生命の創造の御業は、この世的、性的な関係を超えて、人間と世界の根源を支える思想と信仰に依拠するもので、神御自身のみに属する占有事項なのである。従って、神の直接の創造の業は、それまでの世界の秩序や成り立ちを停止し、破壊さえし、新しいいのちを生み出す力を持っているのである
 この意味で、マリアが受胎する遙か以前に、すでに預言者によって乙女が身ごもり、男の子を産むことは告げられているとして、マタイはマリアの受胎を聖霊の業と解釈したのである。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

我々と共なる神
 この神の御業は、「その名はインマヌエルと呼ばれる」とある通り、「神は我々と共におられる」現実の創造だった。一度崩壊した「神と共にあること」の回復、神から隔絶する原因となった罪の克服こそが、イエスの誕生の目的だったからである。
 「産む」ということは、まがいもなく人間イエスを産むことを意味している。神を産むわけでもないし、神になる人間を産むわけでもない。
 マタイが一章一六節で「このマリアから」と言っているように、全き人間としての男の子が生まれるのである。
 ただ、マタイが「この子は自分の民を罪から救うからである」と言っているように、救いの業を行うという使命を持っているという事が特殊だったのである。。
 すなわち、完き人間としてのこの子が、同時に神から派遣された神の子であったということ、そしてこの子の誕生によってインマヌエル、すなわち、神が人と共にいるという事が実現したということが特殊だったのである。
 外から来た者は内なるものと共存することは出来ない。内から生まれた者は外を知らず、外へと連れ出すことが出来ない。外と内とに同時に関わることが出来なければ、内なる人を救うことは出来ない。この二律背反を克服できるのは、新しい創造の業しかない。人はこの神の御業に全権を委ねなければ、この恵みに与ることは出来ない。
 イエスは、外から来て、同時に内に生きることの出来る人であったから、彼はインマヌエルと呼ばれた。

摂理と従順

24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。
 神の働きに全権を委ね、これに信頼するという信仰は、マタイが、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と報じている所に最も現実的に現れている。
 ヨセフが信仰をもって天使の言葉を受け入れ、これに従い、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかったとしているのは、マリアの体内に働いた聖霊の働きを、正しく証しし、人間的な一切の誤解を差し挟む隙間を作らないために、すべてを神の働きに委ねたことを意味している。ヨセフは、神の純粋な働きを曖昧にするような動きを極力抑え、誤解を未然に防ぐことに配慮したのである。
 神の不思議な働きは、力強く実現される。この世と人の状況がどのようなものであっても、これに左右されることはない。人はただ、これを妨害したり、この真実を曖昧にすることを避けることだけしかそれに貢献は出来ない。
 このことをマタイは、「ヨセフはこの子の誕生まで全く神に委ねてマリアと共に暮らした」と言っている。
 人間の救いは、ただ天空に居るだけの神では実現出来ない。また、人間で在るだけの者が神の世界を云々して人間の救いをもたらすことも、また出来ない。
 全き神であり、全き人で在られるからこそ、この方は救いをもたらすことがお出来になるのである。
 神であり、人である神であることを実現しうるのは、神の創造の業以外にない。この、神の創造の業が、マリアという現実を通して行われたのである。
 ただひたすら、主の言葉を信じ、これに賛同して従うことだけが、人の出来るすべてある。神が行い給う出来事は、神が先立ち給うことによって完成する。このことをヨセフは十分知っていた。ヨセフは、この信仰に従ったのである。
 奇跡は、暮らしと関係のない所での異象を意味するのではなく、人間の力が及ばない所で希望が生まれることを意味している。そして、奇跡を起こし給う神の御業を信じる信仰なしには、この恵みを取り逃がしてしまう。
 マタイは、この奇跡と恵みを、マリアの懐妊の中に見たのである。
その子をイエスと名付けた

ヨセフの父権の取得
 ヨセフは、天使が告げた通りに、この子に「イエス」という名を付けた。
 イスラエルの伝統においては生理的な父親が父親であるという以上に、生まれた子に「名前を付ける」という行為によって、初めて父親の権利を得たという習慣によって、ヨセフがその子に「イエス」と名づけたそのとき、ヨセフは、法律上、正当な父親の権利を得た。
 この権利取得によって、イエスはヨセフを父と呼ぶことが出来るようになり、ヨセフが、イエスとの血縁はなかったが、法律的に父として認められ、イスラエルの系図に入れられることによって、イエスは、この地上にある「真の人間」として保証されたのである。

神の父権の取得
 もう一方で、マタイは、このヨセフの従順さを「その子をイエスと名付けた」と、あっさりと何の装飾もなく表現しているが、イスラエルの人々にとっては非常に重要な意味を持っていたことを見逃してはならない。それは、ここで、名付けに関して天使の声に従ったということは、その親権を神に譲ったということをも意味していることにある。
 このことによって、神は、正式にイエスの父としての権利を得、イエスは神を「父」と呼ぶ権利を得たということが起こった。
 福音書において、降誕物語が終わると、ヨセフの登場が全くなくなるのは、このことが関係しているのかも知れない。
 いずれにしても、イエスは、神を父とする「神の子」として、その生涯を始めることになったのであり、救い主、メシアとしての姿が面前に姿を表すことになるのである。
 神が共に歩き給うということを信じ通すことが信仰の全てであり、この神がイエスというお方において具体的に我々と共に歩き給うということを信じることが信仰なのである。
 この信仰において、私たちは、進み、立ち止まり、何事かを為すとき、私たちと共に歩み給うイエスを感じ、あたかも、家を建てる棟梁の知識や経験に従って大工が動くように、共に働くイエスの知識や経験に圧倒されて、彼の意志に従って、進み、立ち止まり、何事かを為すのである。

イエスという名の意義
 こうして私たちは、イエスの僕へと招かれていくのである。この招きのために、イエスはこの世に降られ、インマヌエルの神として私たちの間に居られるのである。何という光栄なことであろうか。
 幼子に与えられた名は、この子の生涯を思う時、実にふさわしい名であったといえる。イエスとは、ヘブル語のヨシュア、「ヤハウエは救いである」という意味である。イエスこそは、われわれの救いなのであり、イエスと共に歩くことによらずして、我々の救いはないのである。

  
 
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