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マタイ1章18~21節 イエス・キリストの誕生

ヨセフとマリアの婚約
マタイによる福音書は、イスラエルの歴史的系譜をまず記述して、イスラエルの伝統を受けて、主イエス・キリストが誕生されたことを述べています。そして、このヨセフとマリアについて、ここで「
18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と書いています。
ここでは、イスラエルの伝統の中にあるヨセフがマリアと婚約をしていたと報じています。イエス・キリストの系図でマタイが上げたように、イスラエルの血統を生粋に受け継いだ人であヨセフは、おそらく幼い時から両親によって婚約させられていたのかも知れません。それがイスラエルの習慣だったからです。「婚約」と訳されている言葉は「妻となることに決まっていた」という意味ですから、両親の意志によって婚約していた意味なのか、ヨセフが「縁を切ろうとした」という言葉との関連で、両親の意志に従って、ヨセフとマリアは結婚することを承認して「許嫁」になっていたのか。いずれにしても、イスラエルにおける結婚は、ただ本人だけが愛し合っておれば出来るという類のものではなく、民族の使命の継続に関わった、重要な事柄だったことが分かります。

悩むヨセフ
イスラエルの習慣によれば、父となるということは、単に、生理的に父親になるということではなく、むしろ法的な性格が重要で、命の誕生に際して、その子に名前を付けて初めて父親になったのでした。従って、婚約は即結婚と同様に考えられていましたから、マリアが身ごもったということは社会的には問題にはならないはずでした。しかし問題は、マタイが「二人が一緒になる前に」と伝えているように、ヨセフがまだ結婚の契りを結んでいないという事実を、彼自身、認識していたということにありました。従って、夫ヨセフにとっては姦淫の罪を犯した女性という判断が心に生じるのは自然なことでした。しかも、マタイが「
19夫ヨセフは正しい人であったので」と伝えている通り、この点を曖昧にしてしまうことの出来ない人であったことが、ヨセフを一層悩ませました。
しかし、マタイが「
マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあるように、ヨセフは悩みの果てに、マリアと離縁することを決意します。
婚約をしておりながら他の男性に走ったとしか判断出来ない妊娠をしたマリアを、彼の性格上容認出来ないヨセフにとって、この事態を正しく解決するためには、マリアを裁判にかけるか、離縁状を渡すかのいずれかを選択しなければなりませんでした。ヨセフはマリアを愛していましたから、裁判にかけてその罪を露わにするには忍びませんでした。そこで、離縁状を渡して婚約を解消する事に決意しました。ヨセフにとって、愛情を示す方法はこれ以外にはなく、精一杯の優しさでした。

神の声
ところが、事態は急変します。マタイは、「
20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と伝えています。ヨセフにとって、天使のこの命令は不可思議に思えたに違いありません。姦淫の女を受け入れよと神が言っておられる。姦淫は、旧約聖書の世界では、石打ちの刑に値する罪です。しかし神はこれを受け入れよと言われる。
この世には不合理なことはあります。しかし人は合理性を求めます。そして不幸なことに、合理的なものでなければ受け入れようとしません。これは人間の本質です。ヨセフもこの人間の問題に直面することを避けることは出来ませんでした。
しかし、神の御業はいつでも、人間にとって思いも及ばない時、突然現れます。人が貧しさのどん底にある時、人が悩みにふさがれて出口を見出すことが出来ない時、人が病の中に命を奪われそうになる状況の中で、この時こそ神の御業の出番であるかの様に、人は神の御業に出会います。神の救いとはまったく反対の極地に人がある時、神の御業は現れます。
それはあたかも、人間を囲む煩悶の中で、人間が考え、行動に移すすべてが、まったくむなしいものであることを証明するかの様に、現れます。人間が、その努力の中で詮方尽きた時、詮方尽くれども望みを失わない力として、神の御業は人間に示されます。人の努力が何の効果もなく、それどころか、見当違いで、人には真実が何も分かっていなかったことが顕わになる様な形で、人間に示されます。
ヨセフは、合理性を求める人間の現実に迷いましたが、しかし一方、彼は、神は天使を通して様々な善き業をなさる事を知ってもいました。これが、イスラエルの宗教的伝統の中に生きたヨセフの特色でした。

不妊の女の信仰
天使が、「
マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と言ったとき、このことは決定的なものになりました。天地創造この方、聖霊のある所には、人には思いも及ばない事が起こりました。その思いもかけない出来事は、神のみ業の現れでした。それを人は驚きをもって見、経験しました。マタイはこのことを福音書の初めにイエス・キリストの系図として書き連ねました。
天地創造の出来事は霊的な創造でした。ここで命の基が造られました。アブラハムの妻の、不妊の女であったサライは、霊的な神の業によってサラとなって、イサクを与えられました。エルカナの妻の、不妊の女であったハンナは、神の働きによってサムエルを与えられました。そしてそこには、いずれも大きな喜びが溢れました。
このような歴史的なイスラエルの経験をふまえているヨセフにとって、マリアが聖霊によって受胎したということは、信仰においてごくごく自然なことだったということが分かります。

ヨセフの従順
もとより、聖霊によって乙女が受胎するという出来事が、信仰によるといえども合理的に受容されるというのではありません。人にとって不思議であることには違いありません。ここで言われている信仰とは、信仰の合理性を言っているのではなく、信仰による「従順」を示しています。信仰に依るとも、人間の有限性が克服されることはありません。ここでは、人間が有限であることを認めて、神のみ業を受け入れ、これを承認すべきであるということが強調されていると理解されるべきです。
神には何でも出来ないことはない。たとえ、人の悟性や感性やその経験に受け入れられない事であっても、神には出来るという了解は、ヨセフにとって十分理解されている事でした。聖書の世界は、「神には何でも出来る」という信仰から始まり、この信仰によって事柄を理解することへと進みます。このことが信じられているという基礎から始めなければ、聖書を一言たりとも正しく理解する事は出来ません。
天使が「
21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言った時、民を罪から救うための、イエスという男の子の誕生は宣言されたのでした。
こうして、ヨセフとマリアは、イスラエルの伝統と神の奇しき御業の連鎖の中で、主イエス・キリストの誕生を担う役割
へと導かれていったのです。

  
 
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